上遠野城(福島県いわき市遠野) 

常磐自動車道湯本ICから県道14号線(御斉所街道)をスパリゾートハワイアンズと反対の西に走り5q、上遠野地区に入ると上遠野中学の北側の山、山頂付近に平坦地と看板が見えてくる。
この看板を良く見ると「八潮見城跡」と書かれている。
八潮見城とは上遠野城の別名であり、この看板の建つ場所が主郭部の曲輪Vの先端部であり、その背後に主郭部が広がる。
上遠野城は基本的には尾根式城郭であり、この山一帯が城址である。
城域は東西500m、南北1200m程度と広い。麓の標高が100m程度、主郭部が210m、したがって比高は110m程度である。
最も北に位置する物見台の標高は230mであるので比高はもっとあると言えるかもしれない。
主郭部に行くには南端の八幡神社から立派な遊歩道が付いているので楽である。
この遊歩道を利用すると主郭部をとおり、最も北に位置する物見台まで行ける。
その間の距離は約2qであるが、その2qにわたり城郭遺構が展開する。
予想以上に広大な城であり、二重堀切、岩盤を削った堀、高い土塁、石垣といった見事な城郭遺構を見ることができる。しかし、訪れたのが11月の15時過ぎ、遊歩道を駆け抜けるような見学。下の図は確認できた範囲を描いただけであり、まだ、曲輪はあるはずである。
登り口の八幡神社境内も2段になっており、ここも館であったようである。
神社から登る道が大手道であったようであり、緊急時はこの道を登って主郭部に避難したのであろう。
道を登ると直ぐに長さ100mほどの平坦地があり、その北側に長さ30mもある二重堀切がある。
これが始めて目にする本格的な城郭遺構である。結構、埋没しているが、主郭側は高さ4m程度の切岸となっている。
そこから先に曲輪や物見台が展開する。この付近は尾根を削り出して土塁状に加工している。
300mほど先にある堀切を過ぎると、道は急な登りとなる。尾根上に出るとここも尾根を削り出して土塁状にしている。
主郭部入口に30m四方の大きさの曲輪Wがある。その西側は高さ7mほどの崖であるが、この上が曲輪Tである。
曲輪Wの南側には削り出しの尾根が土塁状に覆う。高さは6m程度である。主郭部には曲輪Wの南西側に開く虎口から入る。
ここを進むと岩盤を削った幅8mほどの堀がある。
ここには「そろばん橋」という木橋がかかっている。当時もここには木橋がかかっており、緊急時には外したものと思われる。
ここを越えると主郭部であるが、大きさは130m四方程度である。東側の曲輪Tとその西側の曲輪U、さらに西の物見台、南に曲輪Vが展開する。
主郭部は南の開いたややすり鉢状をしている。曲輪Tが本郭に当たる場所であり、50m四方の広さがあり、北と東は高さ4mの土塁がある。南側に帯曲輪があり、その4m下に50m×30mの広さの曲輪Vがある。
この曲輪先端に下からも見える「八潮見城跡」の看板がある。
曲輪Tと曲輪Uの間は2mほどの段差しかないが、注目すべきは石で補強され石垣になっていることである。
曲輪Uは北側を土塁が覆い、曲輪Tとの間に虎口がある。南側、西側は曲輪が積み重なっている。
井戸跡もある。この西側は3段になり、高度差8mに主郭部最高部に当たる物見台がある。頂上部は幅5m、長さ50mほどある。
物見台の西下6mに曲輪があり、その北側が曲輪Xである。50m×25mの大きさであり、北端部が堀切となっている。

ここから北はまた細尾根になり、堀切が2つある。1qほど尾根道を曲がりくねりながら歩くと、北の物見台に出る。
尾根のピークを平坦化した直径15mほどの規模である。ここから派生した南西の尾根のピーク部にも小曲輪がいくつかある。
北の物見台から一気に20m下り、また登った場所のピークは巨岩が剥き出しになっており絶景である。
この付近が城域の北端である。なお、遊歩道はここから南西に延びる尾根を下り、八潮見荘という福祉施設のところまで続いている。

上遠野氏は小山政朝が応永11年(1404)軍功でここ菊田庄上遠野郷を得、一族をこの地に派遣したのが始まりという。
このころの歴史は明確ではなく、政朝の子孫秀時が日の沢城を築き、地名から上遠野氏と称したとも秀時の子の秀通は正平3年(1348)に楠正行に従い戦死して絶え、分家が残ったともいう。
上遠野城は上遠野大炊頭義忠が築いたという。
上遠野氏はこの地で国人領主として力を蓄え、この地方最大の戦国大名岩城氏と血縁を結び岩城氏と行動をともにする。
関が原後、岩城氏が改易されると運命をともにし、この地で帰農する。
今でもこの付近に上遠野姓は多く、帰農した子孫の一族である。
また、一族の大炊頭隆秀は伊達家に仕え、仙台に移住し子孫が残る。仙台上遠野氏は栗原郡一迫町の大川口住み、剣術家として知られていたという。
改易された岩城氏が佐竹氏の保護を受けているため、岩城氏に同行して佐竹氏に属した一族もいる。
上遠野城は当初は詰の城として築かれたものであろうが、戦国時代に少しずつ拡張され今の姿になったものと思われる。
遺構も完存であり、地元の「八潮見城探検隊」の努力により草刈も行なわれ、切岸の鋭い場所にはロープが張られているなどきれいに整備されており、お奨めの城である。
城から下りたらもう闇が迫っていた。今度は午前中に見たいものである。

南から見た主郭部。看板の見えるところが曲輪Vである。 麓のある八幡神社。館跡であろう。ここから登り道がある。 最初に確認できる城郭遺構。幅30mもある二重堀切。 この堀切を越えると急な登りとなり、主郭部に至る。
曲輪T、U、Vの入り口にある岩盤を削った竪堀。木橋がかかる。 曲輪Vの先端部。ここに下から見える看板がある。夕方で影が延びている。 曲輪T内部。東と北に高さ4mの土塁が巡る。 曲輪T南の腰曲輪。前面に土塁を持つ。下に降りると曲輪Vである。
曲輪Uの南側は曲輪群が段差になっている。 曲輪Uの西側。石垣で補強されている。 主郭部西の物見台。幅7m、長さ50m。 曲輪Xの北側の堀切。暗くなってきたぞ。
曲輪Xから100m北にある堀切。主郭部側から4mの深さがある。 主郭部最北端の堀切。 北の物見台。急勾配でロープがある。頂上は径15mの平坦地。 北の物見台の南西の尾根上にある巨岩。ここも物見であろう。

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