ESSAY2019

家族が欠ける2.28
家族が欠けた。
今度は猫さんである。
奴はこのブログにも管理人である俺の名代として何度か登場させた。恰好のブログネタだった。
その猫、12月に階段から転落し脊椎を損傷、どうやらそれが原因であったと思われ、2月26日に死んでしまった。

事故死である。階段に滑り止めを付けなかった飼い主の過失ということになる。
この猫、10年前に先代の猫が死んだ後、ペットショップでかあちゃんと目が合い、一目ぼれされ、それがきっかけに我が家にやってきた。
かあちゃんが一目惚れしたのは、俺とこの猫だけである。
種類は「ノルウェージャンフォレストキャット」、大型の洋猫である。
寒さに強いはずであるが寒がり。分厚い毛に覆われているので夏もダメ。
大型種であり食欲が旺盛なため、体重は9sもあった。でかい割に臆病、女性大好き。我が家に女性の訪問者があると必ず近づいて行った。
俺とは男同士ということもあり相性は良くなかった。・・というより、かあちゃんを巡って奴が俺にライバル意識を持っていたようだ。
とはいえ、奴の存在は家の中では家具同様、家のどこかには転がっている、いて当然の存在、当たり前の光景だった。それが突然、消えた。
27日の夜、家族と一緒に畑の片隅にある先代の猫さん、2年前に死んだ同僚の犬の墓の隣に埋葬し、永遠にその姿が我が家から消えた。
その存在と姿が突然なくなると、違和感に襲われる。
給水機、食器は片づけたが、トイレ、ベット、爪とぎ等はまだそのまま置いてある。
使う奴がいないそれらの品物、見ていると辛い。
命あるもの、いつかこういう日が来ることは分かっていたが・・たかが猫、されど猫。

元上司3.18
以前、ケガをして医者に行ったら昔の上司に会った。
俺がペーペーだった時、彼は係長だった。俺が課長だった時は部長だった。

多くの上司がいたが、俺が好きだった上司の1人であり、仕事の仕方を参考にさせてもらった恩人の1人である。
彼は強引に引っ張っていくタイプではなく、部下の和を尊重し、部下の意見を聞き、アイデアを出させそれを採用するやり方の仕事をするタイプであった。
俺はかつては「〇〇課のキムジョンナム」と呼ばれる独裁者だったが、彼に会ってやり方を変えた。
彼のやり方だと決定に少し時間はかかるが、部下はブーブー言いながらもちゃんとついてくるのだ。
和を重視しているため、上司と部下の距離は近く、彼とは同僚のような会話をしていた。

仕事の場を離れれば、部下が上司をからかうことも日常茶飯事だった。
無理なことを言い始めると「そんな無茶言うと、おかあちゃんに言いつけて折檻してもらうからね」と反撃した。
そう彼は超恐妻家だったのだ。携帯電話の呼び出し曲はあの「インペリアルマーチ」だった。
その、呼び出し音を聞いた彼の顔に緊張が走るのを俺は見逃さなかった。
おかあちゃんが超怖いのだ。

我が家の比ではない。彼女に比べたら俺のかあちゃんなど天使だ。
彼のおかあちゃんの口癖が「この甲斐性なし!」だと嬉しそうによく言っていた。

はたから見れば、上司をバカにしているように見える。
確かに逆パワハラの一面はある、少しバカにしていた・・でも、俺なりに敬愛、尊敬もしていた。

その彼はもう引退したご隠居さんではある。でも見た目は若い。
医者で見たその姿は異様だった。
顔中あざだらけ、腕、足にも包帯が・・びっこを引いて歩いている・・これはただ事ではない。
屋根か、脚立から落ちたような感じである。
「その酷いケガ、どうしたの?また、おかあちゃんにやられたの?」と昔のように冗談を交えて聞いた。
彼は「いや、やんちゃしっちゃて・・」と曖昧に答えた。

この曖昧な回答から推察すると俺の指摘、どうも図星だったのではないかと思っている。
多分、あのケガの程度からすると、おかあちゃんからかなりの暴行を受けたようである。
おそらくゴルフクラブでめった撃ちにされたのではないかと?(テニスラケットでめった撃ちにされた前歴がある。)
おかあちゃんにそこまでさせるおバカなことをしでかしたのだろうか。彼ならやりかねる。

実はこの上司、何度か当ブログに登場させている。
現役時代にも、おかあちゃんが怒って投げたコースターが額を直撃し、額が割れて血だらけになったとか、往復ビンタを食らったとか・・こんなことは日常茶飯事。
いわゆる逆DV家庭のようであった。

しかし、俺は彼は真正のマゾではないかと思っている。やられたことを職場で嬉しそうに話すのだ。
もしかしたら、おバカなことをやらかし折檻されたのではなく、SMプレイをやりすぎたのかも?
家に帰って行く彼の後ろ姿、どこか嬉しそうな、幸せそうな感じがしたのは気のせいだろうか?
それぞれの家庭にはそれぞれの秘密があるのかもしれない。

この記事を読んで、彼が怒鳴り込んできたらどうしようか?
その時は「あんたのことは書いてねえよ。エピソードはお借りしたけど。」と開き直るつもりである。
でも、彼以外、該当者がいないんだよなあ・・。
(本当は庭木の剪定などで脚立から落ちたのかもしれない。あるいは庭で草むしりをしていてバックするおかあちゃんの車に轢かれたのかもしれない。
ゴルフクラブ、マゾ、SM・・はあくまで俺の妄想(真実に近いかもしれないけど)で話を展開させたものである。
誤解なきよう。名誉棄損?・・それはあるかも?まっ、いいか!話は面白いのがいい。)

ブログ開始13周年7.4
2006年7月4日に開始した管理人のブログ、13歳の誕生日を迎えた。
13年という時間は長い。13年前に生まれた子が中学生になる時間だ。
つまり俺も13年、歳を取ってしまった。余命が13年短くなった。
気がついたら、「おっさん」から「じじい」になりつつある。

理解が困難だった「年金」制度も理解できるようになった。
でも、悲しいことに13年も歳を取ってしまったことに対する自覚症状がない。
相変わらず自分の自分に対するイメージは20代のまま、疲れを知らない若々しい姿。
とんでもない勘違いであるが、それを認めたくない自分がいる。
鏡を見ると現実に戻り愕然とする。だから鏡は見ない!ってガキみたいなことを言っている。

13年前に戻れるものなら戻りたい、やり直したいがそれは叶わぬ願望。
この13年の間、色々あった。あり過ぎた。13年も・・なら当然である。何もない方がおかしい。
ホームページも閉鎖を余儀なくされることが増加しており暗雲が漂っている。

このブログも黎明期に始めたのだが、最近、少し怪しくなってきている。
最大手のYahooが閉鎖されるくらいだから。ブログ自体がどうなるのか不透明。
幸いAmebaに移行させてもらったが、まだ、使い方が十分に習得している訳ではない。
さて、この先も続けるつもりだけど、未来は分からない。
まあ、そんなことはその時になって考えればいいだろう。
何とかなるさ。ってことで14年目もよろしく。

妻が死んで1年 7.9
7月9日は妻、かあちゃんの命日。あれから1年経った。あの日は暑い日だった。でも今日は上着なしには耐えられない。
俺は既婚者から独身者になった。いくつかの文書の配偶者の有無欄に記入する時、いまだちょっと戸惑う。
その時、妻がもういなくなったことを実感する。現実感がない。
妻の闘病中はどこか張りつめていたものがあった。

今では信じられないけど、仕事も趣味(城や畑)も今以上にちゃんとやっていた?と思う。
多分、仕事や趣味に熱中することで妻の病気を少しでも忘れたかったのかと思う。これも自己防衛の手段だったのだろう。
介護等で殺人や自殺事件が起きたり、鬱病になったりする例があるが、ストレスに直撃されたらそうなっても不思議ではない。
それを俺は無意識に回避していたのかもしれない。

しかし、今は?妻が死んだら、仕事も趣味にも集中できる?と思いきや、結果は「全然だめ」。まるで主柱、心棒が無くなったみたい。
しばらくしたらショックから回復するかと思ったけど、1年経っても何も変わらない。
仕事も趣味も依頼されたことやルーチン業務はやるが、プラスαはやっていない。
やる気もない。どこかシラケている。熱意を失っている。
家の中のことも子供に任せきり。畑も例年以上のことはやっていない。

お城趣味は、在庫処分でひたすらHP記事を作っているだけ。
城巡りを再開しようと思ったが、それほど行ってはいない。行く気力が減退している。
押し入れに山積になったプラモデルの箱、貯まる一方。眺めているだけ。そのうちオークションに出品か?

何とか、復活を目指すが、続かない。あれこれ手を出してみるが、続かない。しばらくすると萎んでしまう。「面倒くせえ!」
車のエンジンはかかっているのだが、アクセルを踏み込んでも回転が上がらない状態。
まるで、キャブレターが詰まっているよう。

いわゆる「鬱」ではないと思うのだが・・そう思っているのは自分だけか?
ただ、人から見れば、おかしいところは感じられず、普通だとは言うのだが。
それとも肉体同様、気力の低下も加齢のせいか?

傘 7.12
俺は1年に1本、傘をなくす。
これはもう何年も続けているルーチン?行事である。ちなみに出て来たことはない。盗難という可能性もないとも言えないが・・。
なくすのは大体、梅雨時など雨のシーズン、まあ、使用頻度が多いからなくすのは自明ではあるが・・・昨年もそうだった。
家族からもなくすとその都度、「またなくしたんだってさ!」って笑いものにされ、バカにされていた。

気を付けてはいたのだが、例年どおりまたなくした。
もちろん、たいした高価なものでもない。また、買えばいいのであるが・・・なくしたこと自体がショックだ。
自分に対する怒りと情けなさでもある。

おそらく、雨の日に傘を使い、店などの傘立てに置き、雨が止んだ後、所用が済み、傘を置いたことを忘れ出てきたのではないかと思う。
職場なら立ち寄る建物が限定されるので容易に見つかるはずである。でも探したが「ない」。

どうやら雨が上がった等、状況が変化にすると、傘を置いたという記憶がぶっ飛ぶのかもしれない。
これからは傘立には置かず持ち歩くのも対策の1つかもしれない。でも、その辺に立てかけたら、そのまま忘れる可能性もある。
これは加齢に伴うものか?もしかしたら痴呆の前触れか?
そう言えば、最近、物忘れ、記憶喪失?が多い。
一番多いのは人の名前、顔は思い出すのだが、名前が出ない。しょっちゅう会っている人なのに。

忘れたといえば、かつての最大の忘れ物は子供である。
買い物に行って、家に帰って忘れたことに気がついた。
さすがにあの時は血の気が引いたけど。

続ぽるしぇ2 9.20
以前、ポルシェに乗る藪医者という記事を書いた。その続編を書こうとしたら、タイムリーなニュースであった煽り運転に話の内容がズレてしまった。
どうしていつも俺はコロコロと話しが逸れてしまうのだろう。それが今までの自分の人生そのもののようにも思えるけど。

で、本来書きたかった続編の内容。
ポルシェに乗る藪医者の対極を成す知り合いの変人?お医者さんの話。
お医者さんは社会的地位は高い、頭脳も一般人よりも当然高い。でも、やっぱり一般人同様、色々な人がいる。
変人も多い。そのお医者さんも「変人」、労基署関係の仕事で知り合った。

今は一線は退き、労基署や医師会が係る委員会の委員や委員長をやっているが、当時は大病院の院長だった。
そんな先生、会合で気さくに話かけてきた。どうやら俺の仕事の業種内容に興味があったようだ。
色々話してみると人のことは言えないけど、かなりの変人だった。変人同士で気が合ったのかもしれない。
仕事関係の会話もちゃんとしているが、ここでは書かない。その代わりにその変人ぶりを書く。(本人が特定される恐れがあるので内容は若干、アレンジをする。
俺が「変人」呼ばわりしたと言われたらかなわん。もう言われているから問題ない?)

まず、先生が労基署関係の仕事に引き込まれた理由、それは何と懲罰とか(これは先生の主張、冗談かも?)。
何しろ先生の病院の医師に労働者に義務付けられている定期健康診断を受診させていなく、何度か労基署から改善指導を受けていたという。
その改善怠慢のペナルティとか?(もちろん、その原因は医師の労働時間が多すぎ、受診の余裕がないという背景がある。)
病院勤務の医師も労働者、受ける義務があるそうだ。考えてみれば当然であるが、医師が医師を問診するのはお互いやりにくいだろうねえ。

先生と食事をしたら、食後に大量の薬を飲むのに驚いた。
医者の不養生の言葉どおり、いくつかの病気を抱えているとのこと。「自分の健康管理ができていない」と言っていた。薬の飲み忘れも多々。
先生は「医者に行くのが大嫌い」とのこと。それは俺も同じだけど・・。
いつも症状が悪化してからイヤイヤながら医者に行くそうだ。自分の病院では恥ずかしいので受診しない。もちろん、専門外でも原因等は分かっているそうだ。
そしていつも言われる「何でこんなに悪くなるまで来なかったの!」と。「だって、医者に行くの嫌だもん。」どこかで聞いたセリフである。
大量に飲む薬、「どうせならすき焼き風味にしてふりかけで食べたらどう?」と提案したら「それいいね」と乗ってきた。
まあ、こんな調子。
で先生の車は?先生、外見上風格もある人なので、ベンツか、BMWか、レクサスか?その辺りの車が似合いそう。
ところが、ボロボロの軽自動車に乗っていた。15年目、走行距離も15万km。「僕、車には興味がないんだ。走ればいいのよ。」
何と合理的な考えか。
しかし、その「要介護3」と自嘲していた軽自動車、ついにご臨終を迎えた。さすがの医者でも延命は無理だったようだ。
で買い替えた。先生「今度のはハイブリットだよ。」と自慢げに言った。プリウスかな?と思ったが、「レスサスあたりのハイブリットですか?」
と聞いたら「ううん、アクアにした。いい中古があったんだ。」万事がこの調子。
しかし、真っ赤なアクアとは・・・何、どんなセンスしているんだか。

霊は存在するか? 9.5
俺は臆病者である。昔から暗いところや鬱蒼とした場所が嫌いだ。一人でなんかとても行く気にならない。
そういうところには何かがいるような気がして・・。
でも、その手のもの見たことはない。(変な体験をしたことはあるけど。)
その手のものって、お化けのことであるけど。霊とも言う。

霊と言っても色々あるが、ここで言うのは死んだ人間の霊(生霊というのもあるけど、これは除外)、「霊魂」とも言う。
Wikipediaによると
「霊魂(れいこん、英:SoulもしくはSpirit)は、肉体とは別に精神的実体として存在すると考えられるもの。
肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられている、体とは別にそれだけで一つの実体をもつとされる、非物質的な存在のこと。
人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在、人格的・非物質的な存在。
個人の肉体や精神をつかさどる人格的存在で、感覚による認識を超えた永遠の存在。
「霊魂」は、体とは別に実体として存在すると考えられているものであったり、人間の生命や精神の源とされ非肉体的、人格的な存在とされるもののことである。 」
さらに「「霊魂」という表現は「霊」と「魂」という言葉の組み合わせであり、両方を合わせて指している。
一般には、個人の肉体及び精神活動をつかさどる人格的な実在で、五感的感覚による認識を超えた永遠不滅の存在を意味している。
そこに何かいると五感を超越した感覚(第六感)で感じられるが、物質的な実体としては捉えられない現象や存在(聖霊など)のことを指すこともある。 」
と書かれている。
・・英語のSoul、Spiritは違う意味で使われているような気がするけど。
だいたい、Soulって聞くと、まずは黒人音楽を思い浮かべる。
霊、亡霊より「Soulを感じる」などがよく使われるので、「心」「精神」「気迫」「情熱」、「生命」などの意味が強いように思える。

霊が存在するなら、あの世も存在するのかもしれない。
で、本当に霊は存在するのか?
俺もかつては存在するのではないかと思っていた時期もある。しかし、今は存在しないものと思っている。

なぜ、そう思ったかというと、2018年、俺は妻を病気で亡くした。親を亡くす前に亡くしてしまった。
今までの人生で最大の痛恨の事態であった。強烈な経験だった。
死去から葬儀までは4日間あった。友引が入ったことと、他にも葬儀があり坊さんが対応できなかったことによる。
このため、4日間、妻の亡骸と一緒にいた。普通、亡くなるとその晩、夜伽をする習慣がある。そこを俺は4日間、夜伽をした。
しかし、その間、何も見なかったし、感じもしなかった。1日目は身体が興奮状態で良く眠れなかったが、2日目以降は熟睡していた。
夢も見たが妻は夢にも出てこなかった。横にいるのに。
この間、部屋に訪ねて来たのは猫のみ。奴は人間より霊感が強いと言われているが、何の反応も示さなかった。
ひたすら俺の横で寝ていただけであった。

あれから1年以上経つが何もない。
彼女の一番の血縁者である3人の子供たちも何も見ていないし、何も感じていないし、何も起こらない。
そんなことから、「人間は死んだら、そこで全ては終わり。その先は何もない。」という結論に達した。
大人になったら感じなくなるとも言うが、猫さえ反応しないのは、「死=無」ということではないかと思う。
いや、愛想をつかされ相手にされていない可能性もある、我が家の猫が飼い主同様「能なし」なのかもしれない。

しかし、霊の存在を信じる者にとっては霊魂は存在し、感じ、見えるのだろう。信じている潜在的意識がそれを見せているのだろう。
まさに「信じるものは・・・」の世界である。信じていなければ感じもしないのでは?
悪霊など潜在的な恐れの意識から感じたり、罪の意識の裏返しとして感じるものだろう。
ほとんどは人間の意識が作り出しているのだろう。

その手のものが「出る。」と評判の場所に行って「ぞくっ」としたことがあったが、あれは暗示が意識に植え付けられたためだろう。
夜、人気のない道や墓地とかで「感じた」するのも多くは潜在意識によるものだろう。もちろん、すべてがそうとは言いきれないけど。冒頭にも書いたが、俺にもだた1件だけ、あれは何だったんだろうという経験がある。その手のものを見ている訳ではないけど。
その時、何人かがそこにいて同じ体験をしているのだけど・・。

霊は存在するか2 第六感について 9.11

まずは台風15号で被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。
という我が家、台風の進路上にありました。真っ直ぐこっちに向かって来ると焦ります。
それに我が家は北から張り出した半島状の岡先端部、比高は40m。南方向の眺望が良い・・ってことは水害には強いが、台風の風の直撃を受けます。
家は何とかなりましたが、植えこんだ野菜の苗を覆っていたドーム状のネットが根こそぎ吹き飛ばされ、復旧が大変でした。
まあ、これくらいで済んだのはラッキーと言えるでしょう。
さて、タイトルに戻ります。

霊魂に関連する用語が「霊感」である。さらに類似するものに「第六感」がある。
まず、「第六感」であるが、「五感以外のもので五感を超えるものを指しており、一般的には人間の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感以外の感知能力を指す。(Wikipedia参考)」と書かれている。
人以外の動物が持つ微弱な電磁波(電磁力)の変化を感じる能力がこれに入るのだろうが、人にもそれらを感じる能力を有する者がある程度はいるらしい。
かつては人も感知能力があったが、現在はほとんど失ってしまったともいう。

一番ポピュラーなものに鳥の帰巣本能がある。体内に磁針を持っているらしい。しかし、最近は携帯電話の普及で能力が攪乱されているらしい。人間も帰巣本能はあるそうである。酔っ払いが記憶にないが家に帰ってきているのもそれらしい。でも、そんな能力があることを自覚している人間は果たしているか?

動物が地震が来る前に騒ぎ始めるのも大地から出る電磁波(電界、磁場)、重力場の変化を感知することによると言われる。
夜、地震前の空が稲光のように光るプラズマ放電のような現象があるが、それもその一種、あの瞬間、電磁波が変化しているのだろう。
この現象、昭和40年頃起きた「松代群発地震」で目撃したことがある。
夜、山の上が弱くゆっくりふわりと光り、しばらくすると地震が来るのである。(動画でも残されている。)
その時、寝ていた猫が急に頭をもたげ、周囲をキョロキョロ見回す行為も記憶にある。

このような地震などの予知能力と同じように、読心術も人が出す微弱な電磁波の変化を感知しているという説もある。
それを感知する能力を持った人がいわゆる「超能力者」と言われる者かもしれない。
「超能力者」を称する者のほとんどはインチキ、詐欺だろうが、中には本物も混じっているかもしれない。

「オーラ」という言葉がある。現代人は第六感を失っているとは言うが、完全に喪失している訳ではなく、微弱には残っているのかもしれない。
ご神体といわれる巨木、巨岩、パワースポットと言われるものなどは、その周囲に磁場、電界が存在し、微弱な電磁波が出ており、それを「オーラ」として感じている可能性もある。
日本など「八百万の神」というくらいであるから、そこら中に神がいることになっているが、昔の日本人は自然物が出す微妙な電磁波等を感じる能力が高かったのだろう。
キリスト教が登場する前の原始宗教は皆、「八百万の神」同様の多神教だったというので、昔の人は日本人に限らず、自然物が出す微妙な電磁力等を感じる能力が高かったのだろう。
子供の頃、それを感知する能力があったが大人になると減衰していくとも言うが、それも事実かもしれない。

パワースポットといわれる場所は、(巷で言われるパワースポットという先入感、暗示に強く支配されているのかもしれないが、)そう言われる場所に行くと「なんとなく」そんなような気もしないではない。これはまだ俺にも感じる能力が少しは残っている証かもしれない。
山の山頂などがパワースポットと言われることが多いが、山頂や尾根のピークは磁界、電界が一番強い場所であり、山腹部と違うのは当然である。
だから石の社が祀られているのだろう。
重金属の鉱床が地下に存在していればその付近の磁界、電界は他の場所とは異なるだろう。
場合によっては隕石が下に埋まっているかも?・・・そんな場所に神社が建てたりしていることはあるのではないだろうか?

巨木が1本の磁石とすれば、周囲の磁界が存在することも想定できる。
それらを昔の人は現代人よりも強く感知していたのではないだろうか?
(歌手やスポーツ選手、芸術家等で「オーラ」が・・と言うこともあるけど?俺は余り感じたことはないけど。あれはファンのみに感じるのかも?いや、実績を評価する意識が生むものでしょう。)

以上から「第六感」とか「超能力」「パワースポット」などは、今はまだ十分に証明できないが、将来、科学的に証明できそうな感じもする。

霊は存在するか3 霊感と神 10.7
さて、「霊感」に戻る。
「第六感」と少し混同があると思われる微妙なものの1つが「霊感」だろうか。
「超能力」とも少しも複合しそうな点もあるが、混同されている感じもする。
しかし、まったく別概念ではないだろうか。
「霊感」とは、「神・仏が示す霊妙な感応のこと。また、神や仏が乗り移ったようになる人間の超自然的な感覚。あるいは霊的なものを感じとる心の働き。 理屈(理知的な思考過程など)を経ないままに、何かが直感的に認知されるような心的状態。」とWikipediaには書かれていた。

最後の定義である「芸術家・哲学者・科学者などが説明しがたい形で得た着想、ひらめき」のことも「霊感」というが、これは本人の能力や豊富な知識、経験等に基づく「発想」「直観」のことであり、「神がかって」見えるが、他の定義とはちょっと違うだろう。
モーツアルトの作曲した曲、天からの霊感で・・とか言うが、違うだろう。あれは本人の才能だろう。天才的な才能によるものだろう。
このようなものは、その分野において「能力や豊富な知識、経験等」がない素人では絶対に有りえないことである。
以上の定義からは「霊感」と「第六感」とは別物と言えるだろう。

ここでいよいよ「神仏」が出てきた。
まず「神」。「神」の登場となると、「神」が存在する、しない、という永遠の論争テーマにぶつかる。
正解は誰も分からない。
俺は「神」はいると信じる者にはいるのだろうし、いないと思っている者にとってはいないと思う。
ちなみに俺は後者である。「俺には神はいない。」
だいたい工学を仕事にした者は、科学的に説明できそうもないものは信じない。
前にも書いたようにパワースポット、御神体、超能力などは科学的に説明できる可能性があるので信じている。

「神」が科学的に説明できそうなら信じることもあるかもしれない。仏も同じ。
「来世」「浄土」が果たしてあるのか?
それは信じている者には存在するのだろう。俺は「ない」と思っている。
信じている人を否定するつもりはないが、信じている奴が強要してくると強い拒絶感を覚える。

定義のある「神・仏が示す霊妙な感応のこと。また、神や仏が乗り移ったようになる人間の超自然的な感覚。あるいは霊的なものを感じとる心の働き。 」は神仏が存在すると信じる者が感じることだろう。
信じない者にとってはそれを「気が狂っている。」「精神病か?」としか見えないだろう。
困ったことに本当の気違いがやっている場合もある。
昔から「俺が神だ。」と言っていた奴は多い。自称「教祖様」も大勢いる。
そいつらは皆、「気違い」または「詐欺師」だろう。
そういう連中には信者もいるので、「超能力者」ではないが、人の心の中まで入り込んで来てマインドコントロールして支配する「特殊技能者」と言えるだろう。それはそれで高度な技能である。

そんなこと言いながら、俺が、神社に行ったら手を合わせ、お寺に行っても手を合わせる。
山の峰にある小さな石の社の前を通った時は一礼は欠かさない。
お金を持っていたら賽銭を投げる。
寺社ではないけど、山中で倒れた墓石があったら重いものは無理だが、できる範囲で修復を試みる。
・・これらの行為は信じてもいないのに矛盾している?。

でもこれらの行為、「信じる」とは別のものと思う。
先人が長い間、大切に管理し、崇拝してきた事実と歴史の重み及び文化財に対する敬意である。
それらを尊重するのは当然だろう。それとともに「慣習」「礼儀」である。
敬意を払う点では、自分にとってまったく無関係な存在であるキリスト教会やイスラム教の礼拝堂に行っても同じである。
欧米人が寺社で手を合わせているのを見るが、同じ理由だろう。
独善的な近世以前のキリスト教や現代のイスラム原理主義のタリバン等なら異教徒のもの、邪教として問答無用で破壊するだろう。

もったいない
「もったいない」は「断捨離」の対局にある言葉。漢字で「勿体無い」と書く。
Wikipediaによると「物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表している、日本語の単語。
「物体(もったい)」とは、元来は仏教用語。また、「勿体無い」は、もともと「不都合である」、「かたじけない」などの意味で使用されていた。
現在では、それらから転じて、一般的に「物の価値を十分に生かしきれておらず無駄になっている」状態やそのような状態にしてしまう行為を、戒める意味で使用される。 」と書かれる。
物が少ない昭和の高度成長期以前のモットーがこの言葉とは思うが、省エネの時代の今でも立派に通用する。
リサイクルなどはこの言葉の延長先にあるものだろう。

しかし、この「もったいない」、ちょっと逸れると「ゴミ屋敷」化の原因となる。
古紙やがらくたに埋もれたとんでもない家もあるが、そういうのは極端な例として、70歳以上の老人がいる家はまず高い確率で「準 ゴミ屋敷」に該当するだろう。80歳以上なら「もったいない正規軍」、真打であろう。
我、実家や妻の実家もそれに近い。何しろ捨てられないのだ。
「捨てる」ということに対して罪悪感さえ抱いている一面もあるのではないかと思う。戦前から戦後にかけての貧しい時代の後遺症でもある。
立派な心掛けとは思うが、度が過ぎると病気に近いかもしれない。

だいたい、御老人達、完全に使用不能状態なものは諦めるが、「まだ動く、使える」ものは捨てない(捨てられない)。取っておく。
でも「まだ動く、使える」ものは、まず二度と使わないのが現実である。
2年ほど前から妻の実家の片づけをやっているが、なかなか進展しない。御多分に漏れず、この家「もったいない正規軍」である。
いや質、量の両面で「精鋭」である。
凄いのなんの。古い農機具が倉庫に山積になっていた。
おそらく新しいものを買った時点で、動く状態だったので予備機として置いておいて、結局、年数が経ち、それらが本物のゴミになったものらしい。それが3世代ほど重なっている。耕運機が3台もあった。
コンバインも1台。下取りなどという概念はあったようには思えない。
それらはタイ人のクズ鉄屋にほとんどただであげた。引き取りにトラックで2往復。
他にも冷蔵庫にTVとか・・こういうのはリサイクル券を買って処理するが、冷蔵庫なんか重くて運べない。4台も放置されている。
さらに古いステレオとか、カラオケ機とかも。
本も捨てない。ほとんどは無価値のゴミだが、余りに古いと骨とう品的価値のあるものも少しは出てくる。
価値がありそうなものは、江戸時代の一分銀や明治時代の銀貨なども混じっていた古銭等程度か?
小判などの金貨、刀とか鎧でもあればいのだが、「ない」!。古いカメラなどもあったが、大した値段にはなりそうもない。
こういうのは骨とう品なのでコレクションとしていただいた。

・・・と、書いた「俺」、娘に言わせれば「ごみ溜め親父」である。
確かに自覚症状はある。「もったいない世代」のDNAを持つ世代じゃないかと思う。
子供の時代はまだ貧しかったし、親の節約生活も見てきた。
正規軍である爺さん連中には敵わないが予備軍くらいの実力?はあると思っている。
かあちゃんも世代的に予備軍に含まれる。俺と大差ない。

「モノ」がそれなりに貯まってきているのは間違いない。プレハブ離れにコレクション的骨董品が貯まってきている。
もう完全に使わないものとか、壊れると捨てるし、下取りもちゃんと出すが、補修できるものは補修して使い続ける。
使っているうちに愛着が湧いてきているものもある。
それが娘には気にくわない。
「いつまでそんなもの使ってるんだ。ゴミ屋敷にするつもりか!」と、古そうなものは「無慈悲に容赦なく」捨てられる。
抵抗しようものならボコボコに文句を言われる。残念ながら「ごもっとも」であり、筋の通った反論ができない。
骨董価値はご理解いただけそうにない。・・価値判断が違う。娘には「ゴミ、がらくた」のようである。
LPレコードに、レーザーディスクに、骨董電気製品(古カメラ、古デジカメ、ウオークマン、ポケベル等)に・・・。