ESSAY2018

明治十勝ヨーグルト5.4
昭和30年代、ようやく高度成長が始まったころ、まだ、我が実家はもちろん、ほとんどの家には自動車などある訳がない。
田舎なので店なんかろくにない。
近距離は自転車、街まで出るにはバスだった。
買い物はバスに乗って街まで行くしかなかった。
その買い物に同行させてもらうことがたまにあった。

母親と行くことが多かったけど、時にはばあさんと行った。
ばあさんは俺が高校の時に死んでしまったけど、ある占い師に見てもらったら俺の守護霊がそのばあさんだと言った。
それは俺も感じている。・・・なのでばあさんの名前、娘に付けた。

ばあさんと街に行った時、ご飯をどこで食べたのか記憶はないが、デパートの屋上でいつも一息ついた。
当時、デパートが興隆期、屋上には観覧車などの遊園地があった。
昭和の風景である。

その遊具の横のベンチに座って必ず食べるものがあった。
それが明治のヨーグルトだった。
当時、田舎でも牛乳の配達はあったが、ヨーグルトも配達されていたかどうか記憶にない。
俺には高級品というイメージがあった。

当時のヨーグルトは牛乳同様、ガラス瓶に入っていた。
ふたは厚紙であった。
そのふたを先端が針になっているふた取器具で取った。

そのヨーグルトはあっさりした甘すっぱい味だった。
それがばあさんとの思い出の1つだった。
時は経ち、ガラス瓶のヨーグルトなどなくなり、多くの種類のヨーグルトが出回るようになった。

もともとヨーグルトは子供のころから好きだったので色々買って食べてみた。
あの味に再会したくて・・・。
クリーミーな濃厚な味あり、あっさり味あり、どれも旨い。
しかし、あのデパートの屋上で食べたあの味に再会することができなかった。
そして、数年前、明治十勝ヨーグルトに出会った。
明治なら・・という思いで買ってみたら「ピンポーン」まさにあの味だった。
あの思い出の1シーンが蘇った。
以後、このヨーグルトばかりを買うことになった。
家では親父専用になっている。
しかし、時々、夜、ばあさんと同名のねずみ娘が台所に出没し、横取りされて食べられる。
食い物の恨みはおそろしい。

かあちゃんの四十九日8.26
8月25日にかあちゃんの四十九日法要をしました。
しかし、暑かったです。
38℃はありました。
この地方の観測史上最高気温だそうです。

あまり大事にしなかったから、その仕返しじゃないかと思います。
冷房もないお寺の本堂で行いましたが、天国に送る儀式を地獄でやったようなもんです。
これが本当の罰あたり・・・。

もう亡くなって1月半ほどが経ちましたが、遠い昔のことのように思えます。
生活は何とかなっています。
入院生活が長かったもので訓練ができていましたので。

しかし、葬式以来、やる気が全く出ないのです。
仕事はやる気がでないのは以前からですが、趣味にも畑にも。
アクセルをふかしてもエンジンの回転がプスプスと音がして上がらないのです。

いつ回復するか分かりません。まあ、そのうち少しでも戻れば・・。
しかし、亡くなった後、やること多いですね。
健康保険の変更、介護保険の返上、高額医療保険の返上、扶養手続き、生命保険の請求・変更、年金手続き、預貯金の手続き・・
手続きによって用意する書類がバラバラで頭が混乱します。
生命保険など会社によって違うのですから困ります。
まだ、完全には終わっていません。

使っていた服等の品物の整理も途中段階です。
かなりのものは子供が使えそうですが、古いものは廃棄です。
その整理品の中で一番大物が車です。

かあちゃんの車はここ2年は本人が乗ることなく管理人が用足し用に使っていましたが、それ以前10年間使っていました。
もう13年目の車ですが69000qしか走っていません。
走行性能には問題がありません。
貰い手を探しましたが誰ももらってはもらえませんでした。
古い年式のポンコツ車ですが、かあちゃんの思い出が染みついた車であり、愛着があります。別れは辛いです。
この車を下取りに中古車を買いました。
そのナンバーをかあちゃんの誕生日にしました。
これで思い出は少しは引き継がれるかな?


通勤時間10.7
昔から通勤が嫌いである。
通勤にかかる時間が無駄と思っている。
通勤に時間がかかても給料には反映されない。
通勤手当はつくがそれは実費の補助金程度である。
金銭的には金にならない時間である。

そのため、通勤は管理人にとっては音楽鑑賞の時間と割り切っている。
お江戸で勤務していたころは読書の時間だった。
それ以外には何の意義もメリットも感じない。
それ以上の金はかけたくはない。
通勤に金をかけるのは無駄です。

そんなんで、通勤専用車として、かあちゃんの乗ってた車と親父の軽トラを売ってハイブリッド車の中古を買った。
管理人、片道18qの通勤路を朝は35分ほどかけて行く。
自転車では遠すぎ、バイクでもいいが風雨、寒さに弱い。
当然、音楽鑑賞は無理である。
必然的に手段は自動車となる。

通勤路、それなりに渋滞もあるが、けっこうスムーズに走れる道である。
ハイブリッド車の性能が最も発揮される条件である。
ハイブリッド車、確かに燃費がよく経済的である。
でも車両価格はガソリン車に比べると高い。
14年ほど乗らないとガソリン代との価格差はペイしないと言われる。

しかし、中古となると車両価格は安くなる。
中古といっても日本車の場合、性能が低下することも少ない。
てな、貧乏人根性丸出しの理由での選択。

通勤は経済性重視なのでこれで十分。
案の定、燃費は30q/リットルと良い。
これは満足できる。

でも、このシステム、凄い技術である。
特に制御システムに感心する。一応、管理人エンジニアが本職なのでそこは理解できる。
しかし、通勤や用足しにはこれで十分だが、遊びに使うとなるとどこか物足りない。
面白味を感じない。個性は感じない。
パワーもそれほどある訳ではない。山など悲惨。
アクセルの踏み込みと加速の間にタイムラグがある。
でも、これは経済性を優先したので仕方ない。

おとなしい勉強のできる良い子ってイメージかな?そういう子、小学生のころいた。
りんご泥棒の管理人とは正反対の存在である。
とても林道なんて・・・。
果たして管理人と相性がいいのかは何とも言えない。
ただ「ケチ」という点だけは同調する。

かつて「やんちゃ」な車を持っていた。
一時、ホーミー、ジムニー、レビンそれからオフロードバイクを持っていた。

さすがに経年により全て引退したけど個性だけはいずれもそれなりだった。
ホーミーは中に布団を敷いて泊まれるのが最大のメリット。
山道のカーブはマニュアル操作のレビン、林道はジムニー。

ジムニーには経済性という視点はない。
燃費はクラウン並み、でもそれでも満足していた。
山城探しには最高のパートナーだった。
もう、奴らのような車と付き合うほどの体力(注意力?)と経済力はない。

それより逆走とアクセル、ブレーキの踏み間違いの方が懸念事項か?
でも、新型ジムニー、欲しいわなあ。
・・・全然、話がずれてしまった。

神経痛 11.2
ガキの頃、実家の爺さん、婆さんが神経痛で悩んでいたのを覚えている。
おふくろも神経痛に苦しめられた。
それをはた目で見ていた俺、「俺には関係ない話だね。」とタカをくくっていた。
「あれは年寄がなるもんだ。」と。

と、ところが俺にも神経痛の公算大との診断が下された。
愕然とした。それ年寄の公式認定じゃねえか!
(実際は若くてもなるそうである。年寄が・・というのは俺の先入観に過ぎないのだったようだが)
異変を感じたのがお盆過ぎの頃、ベットから起き上がろうとすると右の背中付近から激痛が・・・。
この激痛、持病の腰痛と同程度であるが、腰痛の場合と震源地が違うのである。
でも、痛みは10分程度で消えてしまう。日中は激しく動いても痛みは来ない。

ただし、会社で同じ姿勢で机仕事をしていたらムズムズする。車を運転し身体をひねって左右の確認をしたらやはりムズムズする。
あの肩こりの時と似たような不快感が。
整形外科で検査したら骨には異常はなく、症状からして肋間神経痛らしいという診断である。
原因は姿勢、疲労、ストレスとか挙げられるようだがはっきりしたものはないようである。
全てに心当たりがある。姿勢とすればPCの使い過ぎか?
でもやっぱり根本は、身体の老朽化じゃないかな?

自分勝手な自分のイメージは、疲れを知らない20歳ころの自分のままなのだ。
認めたくはないが、鏡を見ると現実に愕然とする。
最近、体力、筋力、耐久力、根気、記憶力、知力・・全て劣化しているのを感じる。
避けて通れない宿命ではあるが、悲しいもんです。

笑っているあんた!あんたにもそのうち来るぜ。
(追伸、何だか知らんが肋間神経痛は治った!全治2か月。
それは結構なのだが、痛み止めに貼ったモーラステープの成分から光線過敏症を発症し、貼った部分が皮膚炎を起こして痛い!
・・まあ、次々と難題が・・・じじいだねえ。)

すらんぷ
かあちゃんが死んで5か月が経った。
俺の中ではその現実が認識されているような、いないような・・・。
それでも我が家は何とか動いている。
かあちゃんのやっていた家事などを家族が分担してこなしている。
それぞれ負担が増えて大変ではある。

現在の家の指揮権は25歳の末娘が握っている。大黒柱である。
彼女が出す指示で姉達や俺が動く。
でも彼女が出て行ったら?

俺は今まで通り、家族の食費、光熱費等の負担のため、生活費を稼ぎ、畑で食料の調達をし、庭など主に家の外の管理をしている。
そこそこの暮らしはできている。
片親家庭だけど、家族、それぞれ稼いでいるので経済的には困ってはいない。

しかし、家の定常的な仕事はできるのだが、それ以外のことに対してやる気が起きない。
俺は城が好きだ。
今のこの時期は山城のかっこうのシーズン、行こうとしたらいくらでも行くチャンスはある。
でも、その気にならない。
「面倒くさい」という思いが先立つ。

最近は本も読まない。
いや、読む気にならない。本を開いても眠くなるだけ。

押し入れに積まれている大量のプラモデルの箱、50箱はあるだろう。・・また、手を付けてみるか?
箱を開けた瞬間、面倒!止めた!
たくさんのパーツがある畑から出てきた土器片による復元、立体ジグソーパズル?パーツを見た瞬間、やる気を喪失。

「鬱」ではないか?
そう思われるかもしれないが、「鬱」症状の症例のほとんどどれにも当てはまらない。
不眠症?・・よく眠れる。
食欲低下?・・いやあ、何食べても美味い。

仕事?・・できれば行きたくはないけど、特段、拒否感はない。

今までは、ひたすら、かあちゃんの病気という現実から逃避しまくった。
そうしないとまた、パニック障害が出そうで。
逃げて山の中を歩き回ったり、本の執筆に集中したり、企画に参加したり。畑に隠れていたり・・・まさに現実逃避の卑怯者、そのもの。
いや、そうじゃなく、あれは自己防衛だったのかもしれない。

そして今、逃げ回る必要がなくなった。
5年弱逃げ回っていた。
一気に緊張の糸が切れた。
まるで俺は時効を迎えた逃亡者みたいである。
その反動が出ているのだろう。
さて、俺、いったい何をしたいのだろう?
今の状態、いつまで続くのだろうか。
いつ復活するのだろうか?

ばあちゃんの二銭銅貨12.16
かあちゃんの実家の整理をしていたら古銭がたくさん出てきた。
重量で数sほどあった。
江戸時代から戦後まもなくのころの古銭である。

多分、かあちゃんの曽祖父さん当たりが貯め込んだヘソクリじゃないかと思うが、時代幅がありすぎるのでコレクションだった可能性もある。
大体、江戸時代のお金、いくらなんでも、さすが戦中、戦後には使わないだろう。
明治時代のお金も戦中、戦後は使わないだろう。

小判や明治時代の金貨を期待したが、なかった。
ほとんどは価値もないようなものばかり。
若干、少しは価値がありそうなものとしては、江戸時代の一分銀、一朱銀や明治、大正時代の10銭、20銭、50銭銀貨が混じっていたくらい。
布袋に入れられ、さらに木箱に入っていたので保存状態が良かったのか、錆も比較的少なかったが、埃による汚れは酷かった。
そのため、水を浸み込ませた布で拭いてクリーニング。
するとかなりきれいになった。

その中に見覚えのある古銭が。
明治2銭銅貨である。
30枚ほどあった。
100年以上も前の骨とう品であるがそれほどの価値はないようである。

この古銭に思い出がある。
貨幣としての思い出ではない。
これは俺のばあちゃんの愛用品だった。

何とばあちゃんはこれを2つに割った瓜の種取り用スクレーパーに使っていた。
瓜の種が入っている部分と明治2銭銅貨の湾曲が良くフィットしていたようだ。
俺がばあちゃんのその作業を見たのはもう50年以上も前のことだった。
井戸端にムシロを敷いて座って、瓜の山と格闘していた。
その後ろ姿が目に焼き付いている。
その瓜で奈良漬けや味噌漬けが作られた。
その味噌漬けの瓜をいれたおにぎりは絶品だった。

ところでこの2銭銅貨、でかいし重い。
重さは10円玉3個分、直径は約32o、ちなみに10円玉は23.5o。
こんなの財布に入れていたら数枚で満杯になる。
財布の重さも半端ない。

この下には1銭、半銭銅貨があったので、下から数えた方が早い位の少額貨幣である。
米価で比較すると、明治の1円は現在では4000円だそうだ。
ということは現在では2銭銅貨は80円程度のものだろうか。

2銭銅貨の上は、銀貨になり5銭、10銭、20銭、50銭、1円と続く。
さすがに銀貨になるとコンパクトで財布に入れても重くはならないようである。

夢を追う 12.29
あるTV番組で遅咲きの女優さんのことをやっていた。
劇団に入り、地道に活動し、長い間、芽が出ず、30後半でブレイクした幸運な例である。
幸運もあるが、当然、実力あってのものである。

お笑い、俳優、バラエティ、歌手・・・実力もなく親の七光りでデビューし、いつの間にか消えていった人も多いけど、実力があっても運がなく、世に出れなかった人も多いのだろう。
と言うより、そういう人がこの業界、ほとんどなのかもしれない。
この業界ばかりでなく、音楽、美術、スポーツ界、皆、同じだろう。今、平凡な市民なのだが、上手く行ったら「天才的」という形容詞がついたかもしれない人材はゴマンといるのだろう。

ふと思い浮かべたのは、小学校、中学校の時にいたF子のこと。
彼女は旧家のお嬢さんで、礼儀正しくおとなしく清楚な美人だった。頭もよかった。
いわゆる典型的な「良い子」である。だいたいにおいて学級委員は彼女のような子がやるものだ。
嫁さんにするなら申し分ない女性だ。
その彼女、高校を卒業すると劇団に入ると言って大騒ぎをして家を飛び出した。
そのきっかけは中学の時、演劇部の文化祭での公演で主役を張り、大絶賛を受けたことであったらしい。
その後、他校で招待公演もやり、高校の時も演劇部で主役を張ったという。
主役の快感が彼女をプッシュしたのだろう。一身で受けた喝采、あれは強烈な麻薬でもあったのだろう。それは分るような気もする。

親が大反対したのは言うまでもない。当然である。俺が親でもそうしただろう。
あまりにリスクが大き過ぎる。まず上手く行く公算などない。
親なら幸せな結婚をして・・・と、平凡だがリスクの少ない道を希望したはずである。

説得には、彼女が尊敬していた小学校時代の恩師も駆り出された。でも、結局彼女の決意を止めることはできなかった。
あのおとなしい彼女のどこにそんな情熱があったのだろう。これは驚きだった。
この経緯については、その恩師に後日会った時、詳細を聞かせてもらった。
恩師は一応は親から依頼された説得はしたという。
しかし、「今、やらなければ一生後悔するぞ」という気持ちもあったという。
恩師なりに悩んだと言っていた。結局は形だけの説得だったようだ。半分は認めてやってもいいのでは?という思いがあったようだ。
その後の彼女の消息は知らない。結局、高校の時、小学校のクラス会であったのが最後に会った姿だった。
その姿が俺にとっての今も彼女のイメージである。

しかし、やはり、大多数の者が入る演劇界で消えていったグループに入ったようだ。
彼女の夢は叶わず、破れたのだろう。
今、何やってんだろうなあ。多分、親の当初の希望のように結婚をし、孫もいるんじゃないかと・・?
もし、会えたら、「あの時の行動に後悔はなかった?」「夢を追って悔いはなかった?」と聞いてみたい気がする。
そんな俺、冒険もできず、後悔ばかりで人生の半分以上を過ごしてきてしまった。
そう思うから、どこか彼女の行動にいまだに羨望と尊敬の念を抱いているのだろう。
実力もないのに冒険などしようもないけどね。