随想録 2014

夢の実現
子どもの頃の夢を実現しましたか?

けっこう、実現できているのが「教師」。
実現性の可能性が比較的高い職業ではあるが。
管理人の小中学校時代の同級生でも「先生になる」と宣言し、ちゃんと実現した者が何人かいる。
しかし、よく先生なんてなりたいと思うものである。
管理人なんか先生になりたいなどと思ったことはなかった。
やはり強い「意思」あってのものである。

そこへ行くと管理人なんか、小中学校のころ、目標は何もなかった。
だいたい、大人になるのが嫌であった。
だから、何もなりたくなかったのである。
ピーターパン症候群ってやつである。

でも、気が付けば大人も過ぎつつある。
今は「じじいになりたくない」とほざいている。
今もあの頃と何も変わってはいないのに唖然とする。

工学系の学校に行ったのだが、理由は工学系ならどこかに就職できそうという安易かつ漠然とした発想によるものだった。
そこには「意思」などというものはない。「何とかなるだろう」という超楽観的な思考があるだけである。

結局、卒業して就職したのであるが、就職先への志望動機は特になかった。
「卒業して就職しないでブラブラしている訳もいかず・・」ってことである。
世間体を繕うのが第一目的である。
就職先はどこでも良かったのである。
何だか「誰でもよかった。」という通り魔のワンパターンの言い訳と似ている。

ともかく就職志望先を選定した。どうやって面接をクリアしたか記憶にない。
多分、その場限りのテキトーな出まかせを言ったのだろう。
この方面の才能はある方だと自認している。
面接官を煙に巻いたとでもいえるだろう。

何年か経ち、その面接官が定年退職となり、わざわざ挨拶に来た。
でも、まともに顔を見ることができなかった。やましいところがあったからである。

そして、時は経ち、今度は自分が面接官をすることになった。これはショックだった。
というより後ろめたさがあった。自業自得、天罰だ。
面接相手にあれこれ準備した質問をするのであるが、俺が?やるの?・・・なんか白々しい。
しかし、皆、上手く答えるもんだ。
多分、自分ならしどろもどろ、多分、答えられないだろうなあ。

だいたい、管理人、今だに今いる会社への志望動機、曖昧だもんなあ。
敢えて言うなら「ブラブラしているのも見っともないし、この会社なら世間体が繕えると思って・・それから、ある程度、給料いただければありがたいです。」
これじゃあ即「帰っていいよ。」だろうなあ・・・。

面接が終わり、同じように面接官に動員された奴が言った。
「俺さあ、ここに就職したのは、大学卒業して家でブラブラしてるのも世間体が良くねえなあと思って・・親もうるさいし・・・・。」と
・・それ、どっかで聞いたセリフ。
俺と似たいい加減な奴もいるもんだ。こんな連中、面接官させていいのか。
いや、いい加減、テキトーにやっているから何とかなっているのかも。
そいつはその後、ちゃんと出世していた。
辞令を見てお尻からため息が出た。
就活している学生さん、こんな裏舞台、知らん・・方がいいでしょう。
偉そうな顔している面接官、過去の姿はあなた方と似たようなもの?!

いじわる爺さん3.27
御存知、「花咲じいさん」に登場する「ポチ」だったか「シロ」だったかを殺した悪いクソジジイである。
でも彼こそが、我が国最古の考古学者なのである。
何せ、穴を掘ったら割れたお皿がザクザクだったというじゃないか。
多分、彼は大量の縄文、弥生土器を掘りあてたのであろう。

で、俺もいじわる爺さんと似たようなことやっていた。
畑には草が生えている。
それを取らないと耕運機がかけれない。
草を取るのはいいが採った草を捨てる場所に困る。
それで畑の一角に穴を掘り、穴に草を放り込む。
そのうち肥料にもなるはずだ。

穴を掘るとスコップにカツンと何かが当たる。土器片だ。
そこら中にある。結局、途中から宝さがしになる。
住居跡を掘りあてたのだろうか。
土器はほとんど弥生土器中期から後期にかけてのもの、一部、縄文早期の土器も交じっていた。
こんなことをやっているから畑仕事は全然進まず、花粉を吸ってくしゃみ連発。
感涙にむせぶことになる。

結婚記念日3.8
3月7日は結婚記念日だった。
夫婦ともすっかり忘れており、何かの書類に日つけを記入した時、「そういえば・・」と気が付いた。
気が付いたのが夜だったので、記念日として何もすることもなく・・・。

あれから何年経ったか、書くつもりはないが、子どもはあの時の我々の歳を越えてしまった。
結婚した時、俺は25歳、かあちゃんは22歳だった。今、考えるとガキ同士のままごと婚だったような?
親は一体、どう思っていたのだろうか?当時の写真を見ると俺は子供がでかくなっただけ。

かあちゃんも幼い!結婚当時は訪ねて来る人に「おかあさんいますか?」っていつも聞かれていた。
誰も奥さんとは思わなかったようだ。
先日、かあちゃんの行っていた中学の50年史が来たが、子どもは一発でかあちゃんを見つけた。
「今とほとんど変わってねえじゃない」と驚いていた。
今、セーラー服を着たらあんな感じか?ってくらい化粧をしなければ童顔。
その頃の俺の手取り、月13万ほどだった。
その頃、VTR戦争をやっていた。VHS対βマックス、もう両方とも歴史の彼方。
テープが1本1000円もした。

CDが出始めたのもそのころ。1枚3500円もした。
電子レンジも普及し始めた。物価は今とは違うとは言えよくやれたもんだ。
車はかあちゃんがポンコツシビックを持参。

住んでた家は田舎の2Kの小さな一戸建て、でも芝生の庭と小さな畑付きという好条件、家賃は月3000円!そこに3年住んだ。
子どもが産まれ、猫が住みつき、猫にも子どもが産まれ・・。
今、その場所はサッカーコートと駐車場になっている。
近所の良く行った商店もおばさんが死んで跡継ぎなく閉店となり今はない。
スーパーもなくなっていた。
はるか昔となってしまった昭和の話。


趣味?の墓石復興
土日は努めて山歩きをします。これをやると首筋の凝りとか、肩こりなどが解消されるし、モヤモヤも消えます。
しかし、2月に入ると土日が悪天候続きで、それどころじゃない。で、ようやく2月22日、念願の山の徘徊ができました。

徘徊ついでなのですが、全く個人的な行為ですが、もの好きで墓石や祠の復興などを時々やっています。
やる理由の1つには「願賭け」の意味もあります。
精神的なよりどころを得るためもあります。以前に記事にしたことも何度か。

田舎の山などを歩くと、過疎化などにより人が世話しなくなり、忘れられ朽ちた墓地などが多いです。
余りに沢山あるので、無視して通り過ぎようかと思うのだけど、どうも罪悪感を感じて・・
この日もそんな墓地跡?に出くわした。
いくつかの墓石が倒れたまま、落ち葉や土に埋もれかけていた。
いちいち起こしていたらどんでもない作業量。そのまま通り過ぎたのだけど、どうも気になり引き返す。
荷物をその辺に置き、復興を始める。
ただ墓石を起こせばいいという訳ではない。
土台の石をちゃんと固定して、その上に立てていかなければならない。
数個やったら汗が出て来るし、息が上がってくる。
土に埋もれた石を起こすのはかなりの力がいる。
結局、どうにも起こせなかった墓石もあった。
これ以上やったらギックリ腰が起こる・・で、ごめんなさいと言って大きなのはあきらめる。

冬の陽を浴びた広葉樹の林の中の墓地は冬場はすっきりしている。
夏場は鬱蒼とした木陰になり、蛇さんがお散歩するのだろうか。手を合わせて下山。これで気持ちもスッキリ。
墓石には「寛政6年」とか「明治二十年」などの年号が読めた。
いったい、この田舎でどんな暮らしと人生を送った人たちなのだろうか?御加護をいただければありがたい。

おばかな山城攻略記2 1.26
また、やってしまった。
その城のある山、先端部近くに墓地があり、先端から墓地まで車で登る道がある。
この墓地の上の比高60mの山が館跡である。そこは神社の参道にもなっており、その参道を行けばよいのである。
ここで大きな勘違いを1つ。だいたい、山の上の城のある場所=神社のある場所という先入観を抱いてしまったこと。

後で気がついたが、この公式は適用外であった。
城跡といわれる場所、ただの平坦地に過ぎなかったのである。
もしかしてここか?とは思ったが、いやそんなことはない。このため、ここじゃないと言い聞かせて、どんどん先に進み、最後は比高130m、標高668mの神社の地まで来てしまったのである。
そこが城址だったことは家に帰って気がついた。
幸い写真を何枚か撮ったのでHPにはいつかアップはできそうである。
しかし、この参道、急傾斜の斜面を一直線に登るようになっているのである。
普通はジグザグに登るのであるが、このきつさは尋常ではない。
比高以上の疲労であった。
でもその神社の境内は城っぽい感じであった。山頂部をかなりの加工度で削平しており、幅20m、一辺50、60mのY字をしているのである。
そこが城だと勘違いしたのは致し方ない。
しかも周囲は急坂、この場所に立て籠もったら、高い山であり、要害性が高いのである。
もしかしたら、下の平地が一次避難場所、ここが二次避難場所のような関係であったのかもしれない。
結局、城を制服したのか、できなかったのか?これまた人生の縮図。

天道塚1.24
お山を徘徊していると山の平場に天道塚なるものがあった。
あまりお目にかからないものであるが、茨城北部から福島にかけてけっこう残っているそうである。
この天道塚は天道念仏に係り、天道とはおてんとうさま・太陽のこと、太陽の恵みに感謝して念仏を唱え、五穀豊穣などを祈る素朴な信仰。五穀豊穣を願う農民の素朴な太陽信仰と念仏が合わさったものという。
太陽を崇め感謝する表れから天祭りともいう。

多分、ルーツは縄文時代まで遡るのだろう。この祀りが行われた斎場の跡地が天道塚が建つ場所という。
一般的に天道念仏が行なわれた場所は、「天道塚」とか「天道山」と呼称される陽当たりの良い丘の上や山の上、そして、海を一望できる高台の所が選ばれた。
この天道塚は尾根先端の平坦地にあり、そこの比高は110m、朝日が昇る方向に建てられている。

残念ながら杉が成長してしまい眺望は全然だめ。
林がなければ眼下の水田や畑が見下ろせるはずである。
この塚が建てられたのは昭和4年、比較的新しい部類だろう。
かつてはこの平場に村人が集まり祈りをささげ、料理を食べ酒を酌み交わしたのであろう。
杯が塚も前に転がっていた。
ここは僻地の過疎地帯、今ではここを訪れる者もほとんどいないだろう。
塚の石と台石がセメントで接着されていたので3.11では倒れることはなかったらしい。
とりあえず、手を合わせて下山。
 

夢2014.1.10
俺の部下でスノボが好きだった奴がいた。
その時、奴の年は25歳だった。

そいつ、仕事よりもスノボ優先で、仕事は趣味の資金稼ぎ。
年休も全てスノボのため。ウインターシーズンなんて年休だらけ。
仕事の都合なんて考えない。

仲間も注意はしたのだが、年休は権利だと主張して無視。
そんなんで仲間からの信頼は今一つ。存在感も薄かった。
仕事は趣味の資金稼ぎ、それは俺と同じなんだけど、奴はスケールが違う。
俺はそれでも仕事は優先させている。
奴、何を考えたのか退職して退職金と貯金を資金に仲間と共同でスノボショップを開くと言い出した。

仲間は「世の中、そんな甘くはないぞって、無理だ、後悔するぞ。」と、慰留に努めたが、まったく聞く耳もたず。
慰留すればするほど意固地になったようで逆効果だったようだ。
結局、辞めてしまった。

今の職場では先の展望が開けないという思いもあったのかもしれない。
それは自分の仕事に対する態度が問題だったのだが、それに気が付いていたのかどうか?

そんな奴のことをこうやって書くのも、その甘く独善的な考えが、若いころの自分とちょっと似ていたからかもしれない。
彼なりに独りよがりの苦渋の選択をしたのだろう。
事実、俺以上に仕事に不熱心だったので奴が辞めても仕事には何の影響もなかった。
奴の仕事のポストは、皮肉にも業務縮小となった部署の人間の救済ポストになったのだ。

夢だったスノボショップを信州のスキー場で仲間と開き、「楽しそうにやっていた」と覗きに行った同僚が言っていた。
しかし、2年後、店はなかった。
元同僚や友人などが付き合いで多少利用した程度だったのだろう。
それに、バブルがはじけ、景気が下り坂になっていることを認識していなかったのか。
現にスキー場は閑古鳥が鳴き、閉鎖されることも最近は多いのだ。
結局、俺の予想通りになってしまった訳だ。

その後の奴の消息は知れず・・夢なぞ追わず、あくまでも趣味にしておけばよかったのに・・
しかし、夢を追った奴は、敗退した訳ではあるが、どこか羨ましくもあり・・
俺って、現実主義者、夢や理想のないつまんねえ男だねえ。
夢と現実、どうしても天秤にかけてしまう。
奴、今、何やっているんかなあ。
俺、冒険もできず。・・というより、奴と同じ年の時、もう家族抱えていたからなあ。
言い訳かもしれんけど。