随想録 2013

人生の縮図2013.12.10

12月8日 久々に山歩きをしました。
山と言っても管理人の場合、城のある山しか行かないのですけど。
ある山城を狙いチャレンジ。
尾根に城郭遺構が展開しているはず。
沢から道もない斜面を枝にしがみついてよじ登って尾根に出て、尾根沿いに山の上の方に向かって木の枝をかき分け歩いて行く。
さすが今のシーズン、広葉樹の葉は落ち、見通しは最高。
・・で、登れど、登れどただの山、城郭遺構らしいものはない。自然地形である。

そして悪戦苦闘の末、比高200mの山頂に・・そこは平場であり、なんとなく曲輪のような感じではあったが・・・そして失意のまま下山。
どうも納得できず。家に帰って地図を再度点検。
・・で?愕然!登った尾根が1つ隣だった!沢の反対側の尾根だったのだ。
疲れが倍増したのは言うまでもない。
また、やってしまった。

これを何回繰り返しているのだろう。
でも、人生、所詮、こんなことの繰り返し。的はずれのことばかり。
でも、足腰が鍛えられたから、まあ、いっか!ってすぐ言い訳を。

この疲れは翌日まで尾を引き、普通はありえない頭部MRA/MRI検査で熟睡してしまい周囲から嘲笑されてしまったではないか!
これもまた人生の縮図。こうやって老いてジジイになっていくのだ。
・・・何書いているんだか自分でも分からん!


線路は続くよどこまでも2013.9.21
・・って、歌ありましたねえ。原曲名は「I've Been Working on the Railroad 」 アメリカの民謡。

オリジナルは
1863年から始まった大陸横断鉄道建設の際、アイルランド移民の工夫達によって歌われ始めた労働歌だったそうである。

日本で広まったのは、1960年のアメリカのテレビドラマ「テキサス決死隊」“Tales of the Texas Rangers”の放映でその主題歌とし使われ、その歌詞を替え1962年、NHK『みんなのうた』の中で、『線路は続くよどこまでも』として紹介されたものという。
元々、労働歌だったのでオリジナルな歌詞は卑猥なフレーズも入っていたそうであるが、さすがNHKの「みんなのうた」、良い子の歌になってしまう。
しかし、良い子の歌でもなかなか良い歌詞である。

いかにも線路の先は違った世界があるようなイメージが膨らむのである。
線路が希望につながっているようにも感じるのである。
ガキの頃、長野駅近くの信越本線、篠ノ井線の高架橋の上から線路を見るのが好きだった。
2本平行に走る鉄の線が遠くで1本に見え、そのまま視界から消えていった。
一緒にいた母親が「この線路の先には名古屋という町があるんだよ。」と言った。
その言葉がずうっと頭に残った。

「名古屋って、どんな町なんだろう?」と、色々想像を巡らした。
その縁かどうか、学生時代、一時、名古屋に住むことになった。
でも、熱心にやったのは「パチンコ」だったけど・・。
母親のあの一言が潜在意識として頭のどこかに残っていたのかもしれない。

写真は長野電鉄屋代線、松代駅付近の線路。平成24年3月末廃線。もうレールは撤去されてしまった。
絶対に電車は来ない。この先にも行くことはできない。(Wikipedia参照)
今日は顔に似合わず詩人だったねえ。

知らん振り2013.9.9
中学の時、M子という美人がいた。
頭は並程度だったが、運動もでき、けっこう目立った存在だった。
だから憧れる野郎も多かったと後から聞いた。
俺?残念ながら俺は興味はなかったな。
中学を卒業し、M子にあったのは15年後だった。
中学、高校を卒業し、その後、どうしていたかはよく分からない。
風の便りには結婚し、その後、離婚したと聞いたが、どこまで真実か分からない。

その日、俺はかあちゃんとまだ小さかった子供2人を連れ、かつてから行ってみたいと思っていた「きたなトラン」のような、味は一流、値段も安い、ただしボロというので有名なラーメン屋というより「中華そば屋」に入った。
店に入るとM子が奥のテーブルで2歳と3歳程度の子供とラーメンを食べていた。
一目見てすぐにM子と分かった。この近くに住んでいるようだ。
1つのラーメンを子供2名が分けて食べていた。こぼしたりするのでティッシュで拭きながら・・・。

M子も一目見て俺が分かったようだった。目が完全に合った。
当惑がM子の目に浮かび、M子は俺から目をそらした。
M子の美貌はまだ残っていた。
しかし、M子親子からは貧しさがにじみ出ていた。生活に疲れた感じだった。服は着古し、髪はボサボサ・・・。

声をかけようかと何度か思ったが、その都度、止めた。ここで声をかけたらM子に恥をかかす。
知られたとしても、こっちは俺とかあちゃんと子供2名だけ。
でも、彼女にとってはそれは堪らない屈辱だろう。
それで知らん振りをきめた。
店の名物というワンタン麺、何だか食べた気がしなかった。
・・・見たくないものを見てしまった嫌な後味、忘れられない苦い思い出。
あの親子、今、どうしているかな?


友人の死と胃カメラ2013.7.29
昨日7月28日、友人の死去の連絡を受けた。膵臓癌だったそうだ。
彼とは30年来の友人であり、1歳年上、仕事で2人で九州まで行ったこともあった。
もちろん、珍道中だった。
酒が大好きで、失敗談も数知れず。結局、酒が命取りだったのかもしれない。
先週、見舞いにいった時は、ベットに腰かけて、色々話した。
痩せてはいたが、そんなに急に死が訪れるとは思わなかった。
病院の窓を開けるとビアガーデンが近くにあり、そこの騒ぎで行きたくなり、落ち着かないといっていた。
「抜け出して行くんじゃねえぞ。隠れて酒飲んだら、病院、追い出されるぞ」そう言って別れた。
それが最後の姿だった。 病院から抜け出して、一人で隠れて天国に呑みに行ってしまったのだろうか。

連絡を受けた後、落ち込んだ。無口に拍車がかかり、ため息ばかり、落ち込みは、家族からも分かるほどだったとか。

そして、翌日は自分の胃カメラ。
昨年、胃カメラで癌が発見され、治療のうえ生還した同僚がいた。もう1人はこれから治療とか言っていた。
結構、病巣が発見されるようだ。 友人の死もあり、沈み込む。俺、小心者だしなあ。
で、結果は「無罪、放免!、特段、異常なし。」その結果を聞いたら、元気と食欲回復。現金なもんだねえ。
急に腹減った。何を食べても美味い!でも、皆様、検診は受けていた方がいですよ。
早期発見、軽度なら何とかなるというし。

じいちゃん2013.1.19
「じいちゃん」と言っても我が家の場合人間じゃない。
犬を「じいちゃん」と呼んでいる。

何故かって?もう14歳、大型犬なので人間なら80歳相当らしい。
散歩は好きだが、それを「徘徊」と我が家では言っている。
目も白内障の症状が出てきており、霞むようである。
よくは見えていないようだ。
歯も一部抜けている。心臓音にもノイズがあるらしい。
壮年期の顔は黒い毛に覆われていたのに今は真っ白になっている。
年が出てきている。

でも、吠える時は吠え、立派に警報装置の役割は果たしていた。
その「じいちゃん」正月明けに危篤状態になった。
原因はどうも正月休みに管理人が運動不足解消に数キロの徘徊につき合わせたためらしい。
心臓に負荷がかかり、数日したらグタっとなり、小屋で動かなくなった。丸2日まったく飲まず食わず。ウイークデイのため、動物病院にも連れていけない。
3日目の朝など、小屋の中で冷たくなっているんじゃないかと思った。なにせ、夢の中で山林に墓穴を掘っていた。
じいちゃんは幸い、生きてはいた。良く考えれば、俺の徘徊の口述が犬だったのだ。
やはり1人で歩き回るのはどうも・・・。
徘徊(散歩)もできなくなるのはショックなのだ。仕方なく会社では「家族が急病になったので午後半休を取る。」と言って帰ってきた。
周囲は「家族の人間が・・」と当然思っただろう。
でもおれは「人間の」と言った覚えはない。嘘は言ってない。
やっと動物病院に連れて行き、心臓の薬、多分ニトロだろう・・をもらい何とか持ち直した。
動物病院では犬の名前を聞かれて詰まってしまった。
本名?を忘れていて思い出すのに時間がかかってしまった。
まさか「じいちゃんです。」とも言えないし。今はほぼ元に戻り、大量のエサを食べ、出すものは出すまでに回復した。徘徊もできるようになった。
ただ、いずれにせよ老体、屋外犬であり、冬の寒さは体力を奪う。
そのため、毎夜、ペットボトルあんかを作り小屋の中に入れざるを得ない。
いずれ人間同様、いつかはその日が来るのだが、犬とは言え介護は人間同様大変ですなあ。


Spider in the sky 2013..10.30
この蜘蛛、数日前から網を張り、じいっと待っていました。 この姿、妙に気にかかります。

そのため、そのままの状態で放置。
毎日、獲物がかかったかなと思い見ていましたが、一向にかかる気配はなし。

それでも、奴は我慢強く待っていました。
この場所から動いた形跡なし。
この間、物は食べていたのか分かりません。

なぜか、その姿、どことなくいじましくて・・本当なら蜘蛛巣は取り払いたいのですが、そのまま放置。
そして、ついにかかりました。トンボが。
羽がボロボロ状態なのでかなり弱って、いずれは死ぬようなトンボですが、地面に落ちたら蟻の餌でしょう。

またはカマキリに食べられるのがオチでしょう。蜘蛛の網を逃れるだけの体力もなかったのでしょうか。
蜘蛛、喜び勇んで周囲をうろつきまわっていました。なぜかそれがいじましい。
晩秋の青空をバックに Spider in the sky!
今日は俺らしくない記事になってしまった。

ミュージック・ライフ(MUSIC LIFE)
40代以上のロック好きだったおじさん、おばさん達が忘れえない音楽雑誌がミュージック・ライフ。記憶にある方も多いのでは?
ミュージック・ライフはシンコー・ミュージック(創刊当時は新興音楽出版社)が編集・発行した音楽雑誌。
しかし、1998年12月号をもって休刊となった。
歴史は古く発行は戦前の1937年 、流行歌の雑誌として創刊したという。
その時の雑誌名は不明。

当初は月刊誌ではなく不定期刊だったという。
翌1938年 、『歌の花籠』と改題。しかし、1943年太平洋戦争で休刊。
1951年 - 『ミュージック・ライフ』として復活。当時は、ジャズや翻訳ポップスを中心に取り上げ、日本の歌手やバンドも紹介していた。

表紙には「ジャズの月刊雑誌」と名打たれているが、このころ日本ではアメリカ系のポピュラー・ミュージック全体を指してジャズと呼んでいたそうである。
1960年代、米英のポップス・ロックの専門誌に特化していく。
1964年4月号のビートルズ特集を組む。
このころの編集長が、星加ルミ子。
1964年頃から1974年までの編集長を務め、日本で初めてビートルズの単独インタビューに成功し、売り上げ部数を飛躍的に伸ばし、1970年代に全盛期を迎える。

このころからロックに特化。
1970年代にはクイーンやチープ・トリック、ジャパン等を積極的に取り上げ、彼らがメジャーになることのバックアップとなった。
しかし、音楽自体の多様化(洋楽の相対割合低下)やライバル誌の発行などで徐々に売り上げが減少して行った。

実家の蔵にその40年前の雑誌があった。
古いものは、1971年発行のものである。管理人が中学生のころ、買ってきたものである。

そのころはレッド・ツェッペリン、シカゴ、グランドファンク、CCR,サンタナ、Tレックスなどが全盛だった。
クイーンやチープ・トリック、ジャパンなどはこの後に登場してくる。

カーペンターズやミシェル・ポルナレフなどがこのころ全盛をむかえつつあったが、ポップスにためか、ほとんど扱われていない。
以後、妹が引き継いで買い、10年分以上が残っていた。
中を捲ってみると・・まるで、タイムトンネルの世界。40年前の洋楽シーンがそこにあった。
すでに古典、歴史資料だ。 (Wikipediaを参考)

水田の水争い2012.5.27
はるか昔の昭和時代の出来事。
田の水争いで、うちのジイサンが田圃のあぜ道で取っ組み合いを演じ、殴られて帰ってきた。
悔しかったのか、「畜生」を連発。

そこでジイサン、仕返しを考えた。
(この執念深さは、確実に孫に遺伝されている。)
早朝、相手の家の前に、「肥」をぶちまけようというのだ。
ジイサンなりに、考えたもんだ。
ジイサン、暗いうちの起き、肥桶に「肥」をくみ取り、リヤカーに積もうとした瞬間・・・・悲劇は起きた。
我が実家の庭でそれをひっくり返したのだ。
「見事」な「自爆」である。
自爆現場は凄いものだった。特に、香りが・・・・。
今、福島の学校の校庭では、校庭の土の剥ぎ取りをしている。
それと同じことを、あの後、我が実家の庭で行われた。
ジイサン、家族全員から非難されたのは言うまでもない。
ジイサンの落ち込みは激しく、かける言葉もなかった。
ジイサンはあの件の精神的ダメージが尾を引き、間もなく・・・

・・・何てことは絶対ない。
あのジジイ、それくらいで死ぬわけねえ。
その後、20年間も家族に迷惑をかけ続け、90歳まで生きたわ。

地震女2012.5.7
妹の高校時代からの友人、M子。
この女性、まれにみる「地震女」。
どこまでが偶然か、必然か、分からないが・・・彼女の人生、どこかで不思議と「地震」に関わる。

生まれた時、信州北部は松代群発地震の真っ最中、その揺れの中で彼女は産声を上げた。
地震女に変身したのは結婚後という。
それまではそんなエピソードはなかったらしい。

しょっぱなが、あの「阪神淡路大震災」。
その時、観光で神戸にいて実体験。帰って来れなくなった。

「中越地震」では仕事で長岡にいた。
そして、また、帰って来れなくなった。

そして3.11の後で起きた長野県北部、栄村の震度6強の地震では、近くの飯山にいた。
この時は、車で何とか帰れた。
で、昨年3月11日は?
仙台にいた?いや、仙台にはいなかった。
珍しく、長野市の家にいた。
なぜかというと、なんと3月11日は彼女の誕生日。
子供がお祝いしてくれるというので・・。
以後、「地震女」としての迷声?が定着した。
ここまで偶然が重なるのは珍しい。


心に突き刺さる一言
・・・てなタイトルのコーナーをどこぞのTV番組でやっていた。
何気ない一言がグッと、突き刺さり、精神的に大きなダメージを受けることがある。
それを何年も引きずることがある。でも、意外と言った方は覚えていないもんだ。
あれは○○年も前の高度成長期、昭和のよき日本。俺は中学生だった。
勉強はテキトーにやり、部活もそれなりにやり、リンゴドロをしていた落ち着きのない中学生だった。
ある時、アホで有名なSに誘われた。
体育館のステージ裏の廊下の窓から、プールの女子更衣室が覗けるというのだ。
どうも戸と更衣室屋根の間に隙間があり、チャンスがあれば見れるというのだ。

なお、Sはどこで人生を間違えたのか警察官になった。それを聞いた時、「これで日本も終わりだ。」と思った。
Sの言うこと、どこまで本当か分からんが、意思の弱い俺は、Sの甘い誘惑に誘われ、ある夏のある日、水泳の授業がある日、覗きを決行した。その日は隣の組の水泳授業があった。
着替え中を狙いステージ裏の廊下を首を引っ込めて移動。
そして覗ける絶好のポジションの窓から首を出し覗く。

その時である。隙間から見えた頭が不意にこちらを向き、目が完全に合った。
それはK子だった。
K子の顔の動きは一瞬止まり、目は大きく見開いたまま・・ほんの短時間のことであったのだろうが、俺には凄く長い時間に感じた。
慌てて首を引っ込めた。

普通はここで叫び声を上げ、大騒ぎ・・・そして、校長室にご招待を受け、その後、校内で晒し首状態になる・・・という典型的なパターンとなるはずである。
さすがにこれはビビった。
しかし、なぜか何も起こらなかった。

その後もしばらくはビクビクしていたが、何事もなかった。
「もしかしたら、K子と目など合わせてはいなかったのではないか?
俺の考えすぎ、錯覚、勘違いじゃなかったのか。
そうだそれに違いない。」と考えるようになった。

半月ほど経つとそんなことは、ほとんど忘れかけた。
ある日、学校の廊下を歩いていると、向こうからK子がやって来た。
さすが、あの件を思い出したので、正面から顔は見れなかった。

K子との距離は接近し、そしてすれ違いざま・・・K子は小さな声で「すけべ」との一言発した。
その一言は俺を完全に打ちのめした。
身体が倒れることはなかったが、精神はヘビー級ボクサーのパンチをくらったくらいのダメージを受け、その場で大の字となった。
そして、その言葉のナイフは今だに俺に突き刺さったままになっている。

後で考えるとなぜ、K子はあの時、大声を上げなかったのか?
これが今だ理解できていない疑問である。
K子とはクラスも違うので一度も話したこともなく、そういう子がいることだけは知っている程度の認識しかなかった子だった。

ごく普通の子で取り立てて目立つこともない子だった。
気になる存在でもなかった。
K子との係りは後にも先にもこれのみ、それ以外、まったくない。
しかし、この1件のおかげでK子の顔だけは今も鮮明に覚えている。

時々、その理由をK子に聞きたくなることが今もある。
多分、K子はもうそんなこと忘れているだろうか。
普通に年を重ねたら、今頃は孫がいるおばあちゃんである。
顔を見たらお互いがっかりだろう。・・・ほろ苦い昔のできごと。

ハコ乗りバカあんちゃん2012.2.4
あるブロ友の記事で「ハコ乗り」が取り上げられていた。それで思い出した事件。
ハコ乗りって、暴走族のバカあんちゃんが、車の窓から身を乗り出してかっこつけるアレ。
最近、暴走族も下火、通り過ぎた暴走族を小学生達が「だせえ!」「かっこ悪り!」「ば〜か!」って、完全にばかにしたのを見たことがある。
そんな小学生の冷たい視線にもめげず、我道を行くあんちゃん達も別の意味で、見上げたもの、
でも「ハコ乗り」やっている本人は強がっているが、多分、けっこうアレ、怖いはず。

数年前の夏の夕方、そのバカあんちゃんのドジな様を目撃した。
退勤時の2車線の2級国道は車で混んでいた。といっても渋滞ではない。
車の列にも対向車にも切れ目がないだけ。
スピードも遅い訳ではない。
時速50qで走れる。

その車列の先頭にオバンの軽自動車が走っていた。
何と時速は35〜40qというスロー。
当然、前はガラ空き、その後ろにはバカあんちゃん達搭乗の暴走族仕様のシャコタン。
さらに、その後ろに俺の車。さらに後ろにノロノロ運転の車が続く。

オバンの超スロー走行にイラついたバカあんちゃん車はホーンとスラロームで煽るが、オバンは無視。
対向車がドンドン途切れなく来るので抜くこともできない。

そのうち、見るからにお頭が弱そうなバカあんちゃんの1人、窓から身を乗り出し「ババア、もっと速く走れ、この野郎!」と怒鳴る。
でもオバン、一切無視。
あんちゃん「ババア、ぶ殺すぞ!」とさらに威嚇して怒鳴るが、効果なし。

そんなやり取りを後ろから笑いながら見ている俺、スロースピードなんだが、全然イラつかない。
その時、バランスを崩したバカあんちゃん、思いっきり顔を車の窓枠にぶつけた。
「いてえ」との叫び声が聞こえた。
額を切ったのか、顔面に血が。
バカあんちゃあん、続いて「いてえじゃねえか、このクソババア!」と怒鳴る。

「ちょっと待て、おめえの自爆だろが、ババアは関係ねえじゃねえか!」とも思った。
ここまで、来ると笑いも爆発、痙攣を伴う笑いとなり、呼吸困難、涙まで出てきた。
これじゃ、危なくて運転ができない。

俺は、途中で道を左折したが、オバンとバカあんちゃんの車はそのまま直進。
バカあんちゃん、血だらけの顔で相変わらずハコ乗り「くたばれ、クソババア」と雑言を浴びせながら走行継続。

普通はハコ乗りは止め血を拭くはず、しかし、あんちゃんは見栄なのか、そんなことはしない。
ハコ乗りを継続だ。
見上げた根性だ。
今、思い出しても笑いがこみ上げる。

あのバカあんちゃん、小学生達の嘲笑を追い風に、今も元気に走り回っているのかな。
この暗い世の中に笑いを振りまきながら・・・

野沢温泉2012.1.27
信州北部、奥信濃に野沢温泉という温泉があります。
野沢菜と温泉、そしてスキーで有名な温泉です。

1月27日朝、ここで1日に84cmの積雪があったとTVで報道され、その映像が流れていた。

懐かしい雪に埋もれた温泉街の風景・・・その映像とともに忘れていたあの忌まわしい事件が蘇る・・・

そこには村の温泉管理組合が運営する無料の共同浴場が13箇所あり、浴場巡りが名物にもなっている。
今はどうなのか分からないが、冬のスキーシーズンにはアフタースキーの民宿客が共同浴場に入りに来ていた。

今の共同浴場はかなり立派なものもあるが、管理人が若かりし当時のものは露天風呂を板塀で囲い、屋根で覆い、一角に脱衣場を設けた程度の簡素なものでした。
当然、板塀と屋根の間には湯気を逃す大きな隙間が・・・。
その隙間から出る湯気が雪国の温泉の風情を盛上げる。

その野沢温泉で、高校の部活で毎年、OB会を兼ねて、仲間の実家が経営する民宿を根城にスキー合宿をしていました。
高校生と20台前半のOB連中、ここに来てまで考えたことは、女湯覗き。
やはり野郎には女湯に果てしないロマンを抱いているのだ。
現実はただの妄想なのかもしれないが。

でも、若い女性スキー客も民宿にいっぱい泊まっている。
彼女たちも共同浴場に行っているのを野郎どもは目撃している。
そのことが、男達の理性と判断力を狂わせたのかもしれない。

造りがセコく、大きな隙間がある共同浴場の湯なら覗けるかも?という浅はかな思考。
一応、平均以上の偏差値の頭脳を持っている連中なのだが・・

そこで、建物の外から女湯の外塀に取り付き、中を覗こうと・・・計画。
雪の温泉街に数人の野郎どもが出撃する。そして決行。

ところが、安造りの塀、野郎どもが数人取り付いたため、その重みで外側に倒れ・・・。
板塀の強度と荷重の計算が間違っていたのか、木材の経年劣化による強度低下を無視していたのか、柱が腐っていたのか、原因は不明であるが。
悲鳴が街に・・その後の騒動は、想像の通り。

ちなみに当然であるが、湯気でほとんど目的とするものは見えなかったとか。
冷静に考えれば、よく見えないことは容易に分かるはずなのだが。
例え塀が倒れなくても、騒がれただけでも大騒ぎになることくらい想定できたと思うのだが、「女性の裸」という妄念と集団心理が冷静な判断力を失わせていたようだ。

雪の中を転びながら走り、民宿に逃げ帰った野郎ども、警察への通報と探索を恐れ、民宿の1室で息を潜め、震えていた。
キン○マ、小せえ、野郎どもだぜ。

結果として通報はされず、事件は迷宮入りとなり、全員無事逃走に成功するとともに既に時効が成立している。
しかし、やったことは明らかに「器物破損罪」である。
あの塀の修理費はどうしたかは知らない。

その実行犯連中、現在、それなりの社会的地位はあり、かつての犯罪には死んだふりをしている。
俺?俺はマージャンしてたもんで加わってねえよ。
でも、タレコミもしてねえから、犯人隠匿罪かなあ?
もう、時効だからかまわめえ。
ところで雪の温泉、いいですねえ。行ってみたいですね。