臼井城(千葉県佐倉市臼井田)
アニメ「くれよんしんちゃん」の名作映画アニメに「アッパレ戦国大合戦」がある。
(さらにこれを実写化した「BALLAD 名もなき恋のうた」)
これに登場する「春日部城」。
そのモデル。この臼井城じゃないのか?
その証拠、大攻防戦が行われ、落城寸前まで追い込まれるが何とか落城を免れたという歴史を有する点。
攻めての大将、上杉謙信に似ていたが・・。
それに事故死で亡くなってしまったが、作者は臼井さん・・・・。
これらは偶然の一致か?

臼井城は、佐倉市西部、印旛沼を東下に見下ろす標高27mほどの台地の南東突端部に主郭を置き、梯郭式に西側に曲輪を展開させる城である。
印旛沼の水上交通を管理する城であり、水上交通網で集積される物資の集積基地の性格を持つ城である。
城のある台地、ここは、なかなか良い立地をしている。
台地は東西1q、南北2qほどの大きさがあり、ほぼ独立した台地である。
現在、本郭及び二郭が公園化されており、この付近だけが城域と思い勝ちであるが、二郭の外側、妙見社などのある地は、すでに宅地化、耕地化しており分かりにくいが、三郭に相当し、その外側に堀が残る。
さらにその外側の八幡台団地や臼井台台地になっている地区も城下町があった地区であり、その外周には、稲荷台、臼井宿内、田久里、仲代、州崎、王子台などの砦がある。

したがって、東西1q、南北2qほどのこの巨大台地全体が総構えを持った城と言える。
さらにその外周に岩戸・師戸・志津の3つの支城があった。
この規模の総構えと支城群を持つ城としては千葉県内では、本佐倉城程度であり、この城の重要性と城主(おそらく原氏の時代のものだろう。)の権力・勢力の大きさを示しているものと考えられる。

現在は埋め立てなどで小さくなっているが、印旛沼が東、北の台地裾まで入っており、西側は手繰川が流れる谷津であった。

城の南側のみが台地に繋がるので陸から攻めるにはこの方面からが最適であり、永禄9年の上杉軍の攻撃もこの方面から行われたという。
船を使えば印旛沼方面から上陸作戦を取ることは可能である。
おそらく、それを想定して城側も湖面に乱杭を打ち、綱を渡し、船での接近を防いだのであろう。

この臼井城、行くのが結構、苦労する。
県道64号沿いの道路が走る岡の下から公園化された本郭址が見えるのであるが、そこに行く道が分かりにくい。
案内板はあるのであるが、小さいし目立たない。
佐倉市街地方面から印旛村方面に走行し、国道296号との分岐、中宿の交差点を曲がらず、その40m先の信号を左折、20mほど行くと細い道を右折(そこに小さい案内板がある。)すれば、そのまま城址公園の駐車場に着く。

この道が分からず、管理人はこの岡を2周してしまった。
なお、この道は本郭と二郭の間の南側の堀に出るが、もともと南側からの登城路であったようである。
ちなみにこの道沿いの岡下の集落は屋敷跡と呼ばれている。
原胤貞が臼井久胤の幽居した屋敷址から「御屋敷」という地名が付いたというが、家臣の屋敷などもあったようである。

駐車場に車を置くと、その北が本郭と二郭間の土橋である。
この土橋をわたって本郭に入るが、その手前に巨大な堀がある。
土橋の北側の堀は幅30m、深さは5m程度であるが、本来はもっと深かったはずである。
この堀は本郭の北側を覆い、本郭の北東で帯曲輪になり、一方で二郭の堀に合流する。
土橋の南側が登ってくる竪堀状の道である。

土橋をわたった本郭の虎口の両側には高さ3mほどの土塁がある。
本郭内部は北が凸状の100、100、70mほどの2等辺三角形のような形であり、南側は高さ20mの絶壁状態。
東側の先端からは印旛沼が良く見える。本郭北東に虎口があり、下に曲輪が2段、円応寺に下りれる道がある。
円応寺のある場所には、「江間」という地名が示すように、船着場があったという。(当時の印旛沼は現在の県道64号線付近まで来ていたようである。)

二郭は北半分が公園化されており、この部分は直径80mほど。一段、低く南の民家、畑の地が腰曲輪であったらしい。
現在は西側に高さ7mほどもある櫓台が残っているが、本来は二郭の外周を土塁が覆っていたという。
この土塁破壊時に土の中から15世紀ごろの墓の名板等が出土したということから、かつては二郭の地は墓地であり、曲輪は1500年代に増築されたものと推定がされている。
したがって、文明11年の攻城戦での臼井城は、本郭部のみの城だったようである。

また、永禄9年の上杉氏の攻撃で「実城堀一重」と書かれるまで攻め込まれたということから、この時はこの二郭まで落とされたと推定される。
この二郭の周囲には幅が30〜40m、深さ10m以上もある谷のような堀がある。
残念ながら、中は藪状態である。その堀の南側に斜めに土橋がかかり、三郭と連絡している。
今は舗装されて、車が通れるが、かなり拡張されているのであろう。
三郭は前述したように宅地と畑で城の面影は少ないが、「外城」という地名である。

土橋を越えると直ぐに太田図書の供養碑がある。
この場所も土塁跡のようである。その少し西には妙見社(星神社)がある。
千葉一族の守護神である。太田図書の碑の前の道路を二郭外周の掘沿いに北へ約50m行くと、臼井興胤が勧請したという天満宮の祠がある。
三郭の外側に一部であるが、堀が残る。この三郭は南北1qという広大さである。
その外には城下町があったらしいが、現在は畑であり、さらに外側は住宅団地となっている。
そこにいくつかの砦があったというが、宿内砦が長源寺の道誉上人の墓のある墓地やその裏の宿内公園として残る以外は、湮滅している。
また、所々にまだ土塁が残存するとも言う。

@本郭南の切岸 A本郭東の突き出し部 B本郭土橋入り口部の土塁
C 本郭東の印旛沼への降り口 D 本郭と二郭間の堀穂 E 本郭への土橋
F 二郭内部は芝生の公園。 G 二郭西の古峯神社のある櫓台。 H 二郭外側の巨大な堀
I三郭に建つ太田図書の碑 J三郭に建つ妙見社(星神社) K 三郭外周に僅かに残る堀

臼井城の名と関係する臼井氏は、最も初期に千葉一族から分かれた一族であり、平安時代後期のことという。
下総権介平常兼の子常康が印旛郡臼井郷の開発のために同地に入り、地名を取って臼井六郎を称したものという。
臼井城は永久2年(1114)その常康が臼井の地に居館を置いたというが、それが今の臼井城であったのかは分からない。

ただし、この付近を見渡すと、やはりこの城のある付近が地形上、もっとも城を置くのに適した場所のように思えるので、この地なのではないかと思う。
確実に城が存在したと思われるのは室町時代初期、臼井興胤のころと思われる。
以後、臼井氏は本家、千葉氏に従ったり、反抗したり、ある時は千葉氏の内紛などに翻弄されながら戦国を活きる。
その最初の試練は、千葉氏の内紛にも発展した享徳の乱の時である。

文明10年(1478)12月10日の境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤の守る臼井城に籠城する。
7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、文明11年(1479)7月15日に食料が尽き、城から出撃するよう包囲側が包囲を緩めたことにより、城方が打って出て、激戦となり、城方は破れ落城したと伝えられる(鎌倉大草紙)。

その時太田道灌の甥の太田資忠が討ち死にし、現在も臼井城の三郭に太田資忠の墓が残る。
永禄4年(1561)臼井久胤の代、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見側の大多喜城主正木信茂に攻められ臼井城は落城、
臼井久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井氏正統は滅亡した。
しかし、実態は久胤の母方の祖父の原胤貞が正木氏による攻撃に乗じて、臼井城を乗っ取ったものという。

この後、久胤の奪回作戦が始まる。
亡命先の結城晴朝は久胤を尊重し「十二人円判衆」という重臣の列に加え、下館城主の水谷正村に久胤を預け、正村も久胤を厚遇した。
このころ、上杉謙信の関東侵攻が盛んに行われ、永禄9年(1566)、上杉謙信が長尾顕長を将とする軍勢を臼井城に向ける。
この攻撃は久胤と結城晴朝の暗躍で実現した奪回作戦であったようである。
久胤も結城軍として臼井城攻撃に加わった。

しかし、臼井城には原胤貞とともに軍師白井胤治が采配を振るい、本郭部のみまで追い詰められたが、何とか上杉勢を撃退する。
この時、北条氏が松田康郷以下を支援部隊として派遣していたという。
この攻撃に上杉謙信が指揮を取っていたのかどうか分からないが、いずれにせよ上杉謙信を撃退した城として歴史に名を残す。
こうして久胤の臼井城奪還は夢と終わる。

ちなみにその後の臼井氏は、水谷氏の重臣となるが、後に臼井秀胤の代に浪人するが、間部清定に三百石の知行で招かれ、間部家家老に抜擢され、子孫は間部家の重臣として続いた。
なお、原氏の本拠は生実城であったが、 天正2年(1574)に原胤栄(胤貞の子)が里見勢に生実城を奪われたため、その後、原氏は臼井城を本拠とする。
しかし、天正18年(1590)小田原の役では原氏も北条氏に従って滅亡、城には徳川家臣、酒井家次が3万石で入る。
ところが、文禄2年(1593)に城内より出火し城は全焼し灰燼に帰したという。
その後、城は修復されたと思われるが、酒井家次は慶長9年(1604)12月、上野国高崎藩に移封され、臼井城は廃城となった。