佐倉城(千葉県佐倉市)

佐倉城って、てっとり早く言えば「国立 歴史民俗博物館」通称、歴博のある地です。
公園になっているので、オールシーズン、気持ちよく見学ができます。
しかし、やはり近世の大名の城、広いです。
全部を見ようとしたら凄く時間もかかり疲れます。
歴博自体、さすが国立だけあり、見ごたえある博物館です。ここだけでも楽しめます。
歴博とこの佐倉城、パックなら丸1日、必要でしょう。
夏の炎天下なら死にそうになります。
では「佐倉城」にGO。

天文年間、本佐倉城主、千葉親胤が本佐倉城の西を守る支城とすべく一族の鹿島幹胤に命じて築城を開始したという。
当初の名は鹿島幹胤の名を取り「鹿島城」という。

東から印旛沼の入り江奥に鹿島川と高崎川が合流して流れ込む付近に突き出た台地先端に築城され、主要部は500m×300m程度の広さ、低地からの比高は30m弱である。

右の写真は北西側、鹿島川付近から見た城址の岡である。
しかし、築城工事中に千葉氏当主親胤は家臣に暗殺され、鹿島幹胤も死去し工事は中断したという。
とはいえ、城はある程度は完成していたようである。
後、天正年間に千葉邦胤が拡張工事を再開し、本城を移そうとしたが、邦胤が天正13年(1585)に家臣の桑田万五郎に殺され、再度、拡張工事は中断していたようであるが、千葉氏本城である本佐倉城の政庁としての機能はかなり移転していたともいう。
この2つの暗殺事件、北条氏による千葉氏乗っ取りの陰謀とも言われる。
そんな中、天正18年(1590)小田原の役が勃発、北条氏、千葉氏とも滅亡し、城の整備は宙に浮いた状態のままとなる。

慶長15年(1610)、徳川譜代の土井利勝の領地となり、鹿島城の本格的拡張整備が再開され、ほぼ現在に残る佐倉城の姿となった。
この工事には江戸城の東の防衛拠点としたい家康の意志があったという。縄張りの一部は家康自ら指示したとも言う。
土井氏以後、譜代の石川氏、松平氏、堀田氏が入り、佐倉藩が運営され、藩主は老中などを歴任した。
堀田氏の時、明治維新を迎え廃城となった。

明治になると、城の地には、第一軍管第二師団、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などが置かれ、城の建物は壊され、土塁は崩され、堀が埋められてしまった。
戦後は公園となり、椎木曲輪に国立歴史民族博物館が建てられている。
その佐倉城であるが、近世城郭とは言え、関東の城らしく土の城である。石垣は使っていない。
岡の西端に本丸を置く梯郭式城郭であり、本丸には三層の天守(御三階櫓)が建っていたという。
この本丸部分は内部が芝生の公園になっている@が、ほぼ完全な姿で残っている。

周囲に高さ4m程度の土塁が巡り、銅櫓Aなどの跡が残る。
土塁は幅が広い。
多聞櫓のような回廊式の建物があったという。
本丸周囲の堀Bは幅が30m、深さが15mほどもあり、谷のように深い。
しかし、内部は藪でその深さが写真では分からない。

本丸の南側、西側は帯曲輪Dになっており、今は西の出丸に通じるが、本丸の堀に通じていたようであり、西出丸Lからは二の丸に通じていたようである。
この西出丸、左の写真のように周囲を土塁が覆い内部がクレーター状になっていて面白い。
南出丸Kを通っても一度、二の丸のC部分を通らないと本丸には到達できないようになっている。
なお、この2つの出丸、橋はなく、行き止まり状態で使われてはいなかったという。
緊急時に橋を架けるつもりだったのだろうか。

本丸の西側は梯郭式に曲輪が展開し、整然区画された縄張を持つ。

岡の下にはほぼ1周水堀が取り巻いていたようであるが、北側の三十三間堀の部分は住宅地となり湮滅し、田町門周囲の堀Mが残存する。
南出丸から東側の城南側の堀は水田となって湮滅Nしているが、それでも外堀はけっこう、残存していると言えるだろう。
岡の上の平坦部の堀(空堀)のかなりの部分は埋められて失われているが、堀の一部はちゃんと残る。

斜面部にはJの部分があるなど、かなり残存している。
(しかし、藪で写真を撮っても何だか分からないが結構、深い。)
国立歴史民俗博物館の西側に馬出Hと空堀が復元されている。

二の丸の二の門を出るとFの曲輪があり、その東に姥ヶ池Gがある谷津となり、その南が御殿跡である。
その御殿跡(佐倉中学校敷地)の南側の低地も土塁Oに囲まれ、内部には民家が数軒あった。
@本丸内部は芝生の公園。
周囲を土塁が1周。正面が天守台。
A銅(くろがね)櫓の跡。 B本丸北側の堀。深いけど藪。 C南出丸、帯曲輪に通じる二の丸南部分。
D本丸南の帯曲輪。 E二の丸、三の丸間の堀は湮滅。 F二の門、南側の谷津状の場の曲輪 G主郭部(左)南の谷津の姥ヶ池。
H主郭部東の復元された馬出の堀 I椎木曲輪には歴博が建つ。 J三の丸の堀は斜面部に残る。 K南出丸
L西出丸。橋はなかったという。 M田町門付近の堀 N御殿南側、水田が堀跡。 ONの斜面の裏は何と土塁だった。

歴博の建つ椎木曲輪はかなり広いが、ここには寺社や侍屋敷があったという。

知らなかったが、佐倉城、日本百名城の1つに数えられているのである。
しかし、今の姿は百名城にふさわしい城とも思えない。
もっと遺構が残存していれば、百名城に該当するかもしれないが、遺構が失われ過ぎている。

大体さあ、百名城って、各県最低1城、選ぶって基準があるので、千葉県代表として無理に選んだような気がするけど・・。
本佐倉城の方が、はるかにインパクトのある城と思うが。