本佐倉城(千葉県酒々井町)
千葉輔胤が、本来の根拠地、千葉城を里美氏に圧迫され支えられなくなり、北方の佐倉に本拠を移したのが、本佐倉城であるという。
築城時期については文明3年(1471)という説、あるいはもっと前という説、逆にもっと後であるとの説も存在する。

もともと城を置くにはふさわしい地であり、昔から砦程度のものは存在しており、それを拡張したのではないだろうか。
西から東側の水田地帯に突き出た標高34m、比高25mほどの台地に主郭部があり、さらにその周囲に出城群を持つ巨大な城である。

このうち、「城山」、「奥の山」、「倉跡」、「東山曲輪」(東下曲輪、東の馬場とも言う。)付近が千葉氏オリジナルの部分であり、「セッタイ山」から西及び南の荒山地区、それから南側の向根小屋の遺構は、北条氏の影響及び北条氏に乗っ取られた後に増設された部分と言われる。

天正18年(1590)小田原の役で北条氏が滅亡するとともに千葉氏も滅亡。
ただし、北条氏に乗っ取られたころは、鹿島に築城した新城、現在の国立歴史民族博物館のある「佐倉城」の地を本拠にしていたと言われ、小田原の役直前の時期には本佐倉城の地位は低下していたようである。

千葉氏滅亡後、千葉氏の領土には徳川氏譜代の家臣、内藤家長が入り、さらに慶長15年(1610)に土井利勝が入封し、佐倉城を拡張し、本拠としたことで、元和2年(1616)の一国一城令で本佐倉城は廃城となった。


本佐倉城は巨大な城であるが、その理由の1つには下総守護千葉氏の本拠ということもあるが、巨大化した大きな理由として、北条氏が対佐竹戦略の基地として重視した面があるようである。
なんでここに佐竹が登場するのか今ではピンと来ない。
佐竹の本拠地とはここからは余りに距離が有り過ぎる。
しかし、当時は霞ヶ浦はもっと大きく内海の状態で、今の利根川沿岸の水田地帯は湾になっていたという。
本佐倉城はこの湾の南側に位置する。東下曲輪の先には船着場があったようである。
そこから舟に乗れば、湾であるため、往来は簡単であり、舟で兵を送ることによりかなり機動性を持った運用が可能である。
北条氏進出以前、千葉氏はこの湾と旧常陸川(現、利根川)の水上交通を利用して、布川城、関宿城経由で主君の古河公方と連絡を取っていた。
戦国末期、この湾の北岸には佐竹の影響下にある鹿島城、島崎城が存在するなど、この湾は北条氏の勢力と佐竹氏の勢力の国境でもあった。
その間に江戸崎城、木原城などの北条氏が影響を持つ城は存在するが、その後方陣地がこの本佐倉城である。

江戸崎城、木原城、さらにその先への侵攻のための兵站基地として、また江戸崎城、木原城が落ちた場合の防衛拠点としてこのように巨大化したのであろう。
(不思議なことに霞ヶ浦北岸の佐竹氏の影響の強い地域には、佐竹氏やその同盟者が侵攻拠点、防衛拠点となるような巨大な城を一切築いていない。
佐竹氏はこれ以上、南下する意志もなければ、逆の北条氏が霞ヶ浦北岸を攻撃してくることも想定していないようである。)

本佐倉城の主郭部は戦国末期の城のように洗練された感じは少なく、それ以前の時代の古っぽい雰囲気を持つ。
ダサいとも言え、いかにも中世的である。また、それが魅力ともなっている。
主郭部も北条氏による改修も行われているとは思うが、築城当時のコンセプトは良く伝わる。

この城主郭部はよく整備されており、解説もあり、親切そのものでありがたい。
大手曲輪と推定される東山曲輪の両側を尾根が囲み、南側に本郭である「城山」がある。
城山が比高25mを以って、東山曲輪を威圧しているようである。
東山曲輪から最上位の三郭と言える「倉跡」までは段々状の曲輪になり、北側に通じる虎口(北虎口)が開いている。

北虎口は2つの門があったらしく、屈折し、両側は高さ5mほどもある土塁(櫓台)になっている。
東山にも城郭遺構があり、北側に土塁があり、南側は平場になっている。
北側下には土塁付き?の帯曲輪がある。

「倉跡」下の曲輪からは「城山」は高さ8mほどの急勾配を持って聳える。
城山には二郭である「奥の山」との間の深さ6mほどの堀切の堀底道を通り、南側から入る。
城山の虎口部は内枡形になっている。城山は1辺100mほどのL形をしており、幅は60mほど。ほぼ全周土塁が覆う。
東側から北側にかけて帯曲輪が覆う。南の「奥の山」との間の堀切には木橋がかかっていたと思われ、土塁間が開いている。曲輪内では発掘が行われ、建物の跡が出ている。
主殿という建物跡があるが、意外と小さい。御殿というより、庵という大きさであった。

「奥の山」は直径100mほどの大きさであり、西側「倉跡」側に土塁がある。
倉跡は120×150m、内部は畑である。
「奥の山」と「倉跡」の間に南に下りる道がある。
これは搦手口であろう。ここを降りていくと妙見神社がある。

神社の地とその下に2段の曲輪があり、搦手曲輪と言えるだろう。
この南側は水田になっているが、「中池」があり、対岸の山に出城である「向根小屋城」がある。
「倉跡」の西側に堀を介して「セッテイ山」という直径100mほどの曲輪がある。
主郭部西の防衛拠点である。変わった名前であるが「接待」と書いたのかもしれない。
迎賓館という場合もありえるが、おそらく、北条氏から派遣された目付けがいた曲輪ではないかと思う。
その西側、南側にも北条氏により拡張されたと推定される金上地区があり、総構えとなっている。
金上地区とセッテイ山間には幅40m、深さ10mの巨大な堀があり、さらに曲輪が存在する。
この構造は勿論、小田原城の総構えのコンセプトであるが、牛久城のものとも似ている。
城下町があったか、軍勢の駐屯スペースがあったのであろう。
(鳥瞰図中のマル数字は下の写真の場所を示す。)(「房総の城郭」を参考にした。)

@本郭「城山」から見た東山曲輪。 A城の内 北虎口 B 「城の内」から「倉跡」にかけては
段々になっている。
C 「城山」「奥の山」間の巨大堀切 D「城山」の内枡形虎口 E 「城山」内部は土塁が巡る。
F「城山」東下の帯曲輪 G 「城の内」曲輪 H「倉跡」は畑になっている。
I「奥の山」内部 J南下、妙見神社下の曲輪 K J前から見た向根小屋城、水田は中池跡
L東山の曲輪と土塁、土塁は北側に存在する。 M東山北側の帯曲輪(土塁付き?) N北虎口の土塁上から見た東光寺ビョウ
O 北虎口の北側、この付近に門があった。 P セッテイ山西側の巨大な堀、幅40m、深さ10m。 Q 金上地区とセッテイ山間の曲輪

本佐倉城 外郭部

荒上地区

その北条氏に千葉氏が乗っ取られ、拡張されたスペースとされるのが本城部分の西の台地、荒上地区と根小屋地区である。
一括して荒上地区という。本城西の「セッタイ山」の西に巨大な堀切があり、2つの緩衝地帯となる平坦地がある。
金上地区の標高は34m、本城部分とそれほど変わらない。
堀を介して2つに分かれていたようであり、北側荒上地区の部分が南北300m、東西(北辺が100m、南辺が250m)ほどのL形をした地区。
南側に土塁と堀が残り、土塁間に虎口がある。
残念ながら堀は藪状態。西側にも土塁があったようであるが、湮滅しているようであるが、西側斜面に帯曲輪が残っている。
その西下が道路になっているが、ここは堀跡という。もともとは谷津を利用して拡張したものであろう。
曲輪内はほとんど畑であり、平坦ではあるが、東側が若干低くなっている。
内部には民家が4軒ほどあるだけであり、民家間の道路が曲がった部分が虎口で、その南の畑が低くなっており、堀跡のようである。
ここは、北条氏から派遣された部隊が駐屯していたスペースであろ。
この地区の南が現在の根小屋集落がある根小屋地区、この南にも堀があったらしいが、その堀は湮滅している。
こちらは300m四方の広さであり、読んで字のごとく、職人等のいた城下町であったと思われる。
a 荒上地区内部はほとんど畑である。 b 土塁間に開く虎口、土塁の向こうが堀。 c 西側の虎口跡。
d 西側の堀に面した帯曲輪 e 西側の堀跡、自然の谷津を利用したものだろう。

向根小屋城
本城から南の「中池」を挟んで対岸の山が出城の向根小屋城である。
本城の南を守る砦であるが、砦というより、面積は本城と同じ位であり、軍勢の駐屯スペースだろう。
金上、根小屋地区とは谷津をはさんで東側にあたる。
城のある岡は標高が35m、南から北に突き出た半島状の岡であり、遺構はほぼ完全に残っている。
内部は畑である。ここに行くには入口に表示もなく分かりにくい。
形式は岡の末端部に曲輪を置き、その手前に馬出の曲輪を置く、単純なものであるが、堀や曲輪は巨大であり、馬出部分の構造が非常に巧妙である。
現在、城址に入る道は後付けであるが、馬出の西側に突起部があり、堀を介して突起部に渡り、70m×40mほどの広さの馬出に入ったと思われる。
馬出の周囲は高さ4mほどの土塁が覆い、東側は土壇状になっており、櫓があったと思われる。
馬出周囲の堀は幅30m、深さ10mほどある。
馬出の北側にも堀があり、その先が主郭である。西側に櫓台跡のような土塁がある。
内部はV形をしており、2つに分岐した感じ、Vの1辺は200m。内部は平坦で畑になっている。

f馬出前の巨大な堀 j 馬出内の土壇。櫓が建っていたのだろう。 h 本郭内部は一面の畑

千葉氏は桓武平氏良文の流で上総・下総・武蔵国などに土着した一族の流れであるが、英雄将門にあやかり、彼を助けたというようなことが伝承されている。
このため、本佐倉城も「将門山城」などとも言っている。関東の英雄と係りがあることを強調し、箔を付けたいのであろう。
良文の子孫、忠常は、長元年間(1028ころ)平忠常の乱を起こし、敗れるが、忠常の子孫が千葉氏として残り、忠常の子常将は「前九年の役」に、その子常長は子の常兼とともに、「後三年の役」に出陣し、確固たる地位を得る。この頃「千葉」を称したらしい。

平安末期、千葉氏は佐竹氏と抗争しており、平治の乱には参加していないが、源頼朝が挙兵すると千葉常胤は頼朝を助け、鎌倉幕府設立に大きな寄与をし、上総・下総に御家人として、下総国の守護として確固たる地位を築く。
常胤の二男師常は下総相馬郡を与えられ、相馬氏を名乗り、その一族は奥州征伐により陸奥国行方郡を与えられ、その子孫が戦国時代、江戸時代を大名として生き残った相馬氏である。

源氏が滅びると、鎌倉幕府は北条氏の支配となるが、北条氏と千葉氏とは姻戚関係も結ぶなどして、立ち回り、比較的地位は安定していた。
鎌倉幕府の最後においては千葉氏は宮方として行動、その後、足利尊氏に従うが、胤貞は尊氏を支持し、一方、貞胤は南朝に付き対立。
従兄弟である貞胤と胤貞は、下総千田庄で合戦を繰り返すが、貞胤が尊氏方に服属し内乱も終結する。
鎌倉公方が成立するが、その直後から関東は戦国時代の様相を呈する。

永徳元年(1381)の「小山氏の乱」、上杉禅秀の乱、「永享の乱」、「享徳の乱」と戦いが繰り返され、関東は泥沼の戦乱状態となった。
「享徳の乱」では千葉介胤直は幕府(上杉方)に加わって古河公方軍と戦った。
しかし、このころ千葉氏内部では、重臣である原胤房と円城寺尚任が対立、それに宗家が巻き込まれ、原は成氏に通じ、円城寺は上杉氏に味方。

当主、胤直は円城寺氏と結んで上杉方に属したが、一族の馬加康胤・孝胤父子が足利成氏方に加わり、原胤房とともに千葉城を襲撃。
千葉胤直は志摩城に、子胤宣は多胡城に逃れ、上杉軍の救援を待つが、康正元年(1455)、進退窮まった千葉胤直・宣胤父子らは自害し、千葉氏の嫡流は滅亡する。
その後、成氏は馬加康胤に千葉氏を名乗らせ、一方の上杉氏は、胤直の弟賢胤の子実胤および自胤に千葉氏を相続させ、二つの千葉氏が抗争を繰り広げ、勢力を減退させる。
康胤の跡を継いだ輔胤は、本来の根拠地、千葉城を里美氏に圧迫され支えられなくなり、北方の佐倉に本拠を移す。
佐倉に本拠を移した理由は舟で古河公方と連絡を取りやすかったからとも言われる。
成氏が上杉氏の反撃を受け、古河城が落ちると下総の千葉孝胤を頼り、孝胤が成氏を古河城に復帰させた。

孝胤のあと千葉氏は勝胤、昌胤へと継承された。
しかし、このころになると、小田原の北条氏が勢力が北上し、千葉氏は里美氏との対抗上、北条氏に近づく。天文7年(1538)の第一次国府台合戦では、千葉介昌胤は北条方として戦っている。
その後、昌胤の嫡子利胤は正室に北条氏康の娘を迎え、北条氏との関係をさらに深める。
二人の間に生まれた親胤が家督を継ぐが、家臣れ殺害され、叔父の胤富が家督を継承する。
この胤富は優れた人物であったようで千葉氏の勢力に努力するが、里見氏の攻勢をしのぐため、北条氏の力に頼らざるを得ず、勢力は衰亡の一途をたどり、北条氏の影響が大きくなってくる。
胤富の跡は嫡子邦胤が継いだが、家臣に殺害され、北条氏政により千葉氏に七男・北条直重が送り込まれ完全に乗っ取られててしまう。
直重は千葉介重胤を名乗るが小田原に住み、北条氏の代官が千葉領と統治。
そして、天正18年(1590)の小田原の役で、千葉一族も滅亡する。
千葉一族では高城氏らが、徳川幕府の旗本になり存続する。