昭和40年代の名車

日野コンテッサ1300クーペ
日野自動車と言えば、大型バスやトラックのメーカーとして知られるトヨタの子会社である。
しかし、元々は独立した自動車会社であり、乗用車も造っていた。
コンテッサは東京オリンピックの頃の高度成長期に販売されていた日野自動車の乗用車であり、イタリアのデザイナー、ジョバンニ・ミケロッティが手掛けたこともあり、イタリア車的な雰囲気を持ち、当時の国産乗用車としては抜群の美しさと評判であった。

しかし、国内販売はそれほど振るわず、日野自動車の経営を圧迫し、トヨタに吸収される一因にもなってしまった車でもある。
当時は高度成長期であり、各社から新しい実用本位の乗用車がどんどん発売された時期でもある。

コンテッサのような美と性能を追求した車が大量に売れるほどの精神的余裕は日本にはなかったのだろうか?
時代がついて来れなかった、あるいは時代の先を行ってしまったのだろうか。

そのトヨタとの提携(実際は子会社化)の前提条件の1つが「コンテッサの生産撤退」というものであった。
高度成長の波に飲まれ消えていった悲劇の車である。まさに「美人薄命」とはこの車のことである。
どこか悲し気な雰囲気がこの車にはある。

コンテッサは1961年4月排気量900CCで生産を開始し、1965年4月1300クーペを発売、1967年生産を終了している。
初代、総排気量893cc、出力35psのガソリンエンジンを搭載する4ドアセダン「コンテッサ900」はフロントグリルレス、丸型2灯ヘッドランプ、サイドのエアインテーク、テールフィンなどがスタイル上の特徴である。
駆動方式やサスペンションなどの基本的なレイアウトは従来の日野・ルノーを踏襲し、排気量もルノー・エンジンの拡大版と言うべきものであった。
リアエンジン車でコラムシフトであったため、タクシー業界でも多く使われた。

1964年9月、4ドアセダン「コンテッサ1300」が発売。4灯ヘッドライトと細いピラー、長いリアデッキを基本とするスタイルは、ジョバンニ・ミケロッティが手がけ、その優雅なスタイリングから、多くの賞を受賞する。
エンジンはルノーの拡大版であった900(GP20型)から日野の自社設計による総排気量1251cc、出力55psのOHV直列4気筒「GR100型」エンジンを搭載。最高速度は135km/hであった。
ラジエーターの配置は900がエンジン前方配置であったが、エンジンルーム後端に変更となり、冷却空気導入方法の再検討が必要となった。
リヤスプリングの強化で操縦安定性の大幅な改善を実現した。
シフトレバーはコラムシフトを踏襲し、フロアシフトモデルをオプションとした。
翌1965年には2ドア4人乗りのクーペが発売された。クーペでは、エンジンの圧縮比を8.5から9.0に上げ、出力を65psに増、最高速度145km/hとなった。

低く流れるようなスタイリングは、1960年代の日本製乗用車の中でも屈指の美しさであり、性能も優れ、欧州、オセアニア、東南アジアなどへも輸出された。
しかし、このモデルの発売時期にクラスの小型乗用車の主流はすでにフロントエンジンに移っており、国内販売も振るわなかった。
このため経営を圧迫し、トヨタ自動車と提携条件にコンテッサ1300生産撤退が盛り込まれ、日野自動車最後の自主開発乗用車になってしまった。
以後、日野自動車は「パブリカバン」、「カリーナバン」など、トヨタの商用モデルの一部を受託生産することとなった。(Wikipediaを参考にした。)

スカイライン2000GT(S54B)

1965年発売の2代目のスカイライン。
日産車と銘打っているが、正確にはプリンス自動車の最後の車である。
最後を飾るだけある名車であり、スタイル、性能とも当時の自動車の中では群を抜く存在。
そのデザイン、今の多くの乗用車と比較しても全く遜色はない。

1966年、プリンスは日産自動車と合併するが、その車名が引き継がれ、その名は現在も健在であり、2000GT(S54B)が発展した後継車種GT−Rは今でも特別の存在である。
スカイライン自体の生産開始は1957年。富士精密工業(のちのプリンス自動車)の主力車種として生産がを開始された。
ご存じ、車名は「山並みと青空を区切る稜線」という単純なもの。
名付け親、桜井眞一郎が群馬県草津町の山小屋「芳ヶ平ヒュッテ」で思いついたという。
そして生産50周年を記念してそこに「スカイライン命名の地」のプレートが設置される。

初代のスカイラインはALSI-1型。1500ccのエンジンを搭載。
低床バックボーン・トレー式シャーシを持つセミ・モノコック構造。
前輪はダブルウィッシュボーン独立懸架、後輪はド・ディオンアクスル。
エンジンは直列4気筒OHV・1484ccのGA30型、国産1500cc車最速の最高速度125km/hを発揮。そして、2代目、S5型が
1963年11月27日発売、G1型直列4気筒OHV1484ccエンジンを搭載。

そしてそのエンジンをパワーアップし、1965年2月 ウェーバー製のキャブを3連装の125psスカイライン2000GT(S54B-II型)を発売。
性能の割にスタイルはおとなしい感じであり「羊の皮をかぶった狼」との異名も。この車でスカイラインはGTとしての名を確立し、今日に続く。

トヨタスポーツ800
通称「ヨタハチ」。間が抜けた愛称であるが、「トヨタ」の「ト」を取り、800の「8(ハチ)」を付けたものである。
トヨタ自動車が1965年から1969年にかけて製造した小型スポーツカーであり、超軽量構造と空気抵抗の少ない丸っぽい車体が特徴。
馬力は小さいが優れた性能を発揮した。

ライバルはホンダのSシリーズ。
ベースはパブリカであり、エンジンとシャシを流用している。
開発はトヨタ系列の関東自動車工業。

小さなパブリカ用エンジンで高性能を確保するため、徹底した軽量化と空気抵抗の低減を図った。
その成果が、モノコック構造と580kgという重量、丸みを帯びた形である。
ユニークなのが、プラスチックカバーのヘッドランプ。
どこか名車2000GTと似た印象が残る。

デザインは航空機の低空力抵抗デザインという。
パーツのほとんどはパブリカからの流用している。
エンジンは当初、パブリカ用のU型(空冷水平対向2気筒OHV・700cc)エンジン流用を想定したが、要求最高速度150km/h以上を確保するには無理があり、約100cc排気量を増量し、ツイン・キャブレターを装備することにより、790cc、45ps(エンジン形式は2U型)とした。
超軽量で低空気抵抗ボディの効果により最高速度は155km/hを実現した。

ライバルのホンダSシリーズがDOHCの高回転高出力エンジンを700kg級の車体に搭載したのとは逆の発想である。
1965年(昭和40年)3月から市販され、価格は59.5万円。ホンダS600の56.3万円と大差なかった。
しかし、当時は高度成長が始まったばかり、小型とはいえ、2シーターのスポーツカーが大量に売れる程の社会的な余裕はなく、輸出もほとんど行われなかったため、1969年(昭和44年)の生産中止までの総生産台数は3131台と少ない。


ホンダ 初代Z360
1970年代に発売した軽自動車のスペシャルティカー、360ccでクーペスタイルを目指した意欲作。
ホンダ車特有のに共通する飛行機風の計器類のデザインが印象的。

エンジンはN360E型が空冷 直2 SOHC 360cc、 EA型が:水冷 直2 SOHC 360cc、駆動方式はFF、車両重量 510-525kg
ベースはN360(通称「Nっころ」)と共通のN360E型 空冷 SOHC 2気筒 360ccエンジン(36PS/31PS)を搭載。価格は「Z ACT」が34万8,000円。
「GS」(5速MT、前輪ディスクブレーキ搭載)はすこしおいて発売。当時としては珍しい前輪ディスクブレーキを採用。
1971年12月1日、マイナーチェンジでライフに採用されていたEA型 水冷 SOHC 360ccエンジン(36PS)を搭載し、型式をSAに変更。
これによりホイールベースが80mm長くなった。 1972年1月に、「ゴールデンシリーズ」が発売。
こちらはホイールがシルバーになった。

1972年11月には、ハードトップスタイルに変更。
1973年燃料蒸発ガス抑制装置を追加。
しかし、排ガス規制とオイルショックの影響により、1974年に初代Zは生産を終了した。
なお、輸出用に空冷エンジンのN600の機関部分を乗せた「Z600」というタイプがあった。
なお、1998年、24年ぶりに2代目が登場、660tのSUVタイプの4WD車で、アクティをベースとしたタイプであるが、もちろん初代の名前だけを踏襲しただけのものであり、中身は何の関係もない。

ポルシェ911
緑の中を走り抜けてく真紅(まっか)なポルシェ
ひとり旅なの 私気ままにハンドル切るの
交差点では隣りの車がミラーこすったと
怒鳴っているから私もついつい大声になる

馬鹿にしないでよ そっちのせいよ
ちょっと待って Play Back, Play Back
今の言葉 Play Back, Play Back

馬鹿にしないでよ そっちのせいよ
これは昨夜の私のセリフ
気分次第で抱くだけ抱いて
女はいつも待ってるなんて
坊や、いったい何を教わって来たの
私だって、私だって、疲れるわ

御存じ『プレイバックPart2』
1978年5月にリリースされた山口百恵の22枚目のシングル。
その歌詞に登場する赤のポルシェ911です。

お馴染みポルシェ社が1964年から製造・販売しているスポーツカー。その初期生産型の901S型。
ポルシェ356の後継車種で、世界のスポーツカー・スーパーカーの中でも数少ないRRの駆動方式を採用。
フランクフルトモーターショーでプロトタイプが紹介され、1964年から本格生産に入った。ちょうど前回の東京オリンピックの時、50年も前のこと。
通称「ナロー」。エンジンは新開発の空冷水平対向6気筒SOHC1991cc (130PS(96kW、128hp)/6100rpm、17.8kgm/4,200rpm)の搭載であるが、将来、より大きなエンジンも搭載することも想定して設計されていた。
その他、総アルミニウム合金製のクランクケース、チェーン駆動カムシャフト、バイラル構造シリンダー、軸流式冷却ファン、ソレックストリプルチョーク40PIオーバーフロー型をツインキャブなどの機構を採用。
その後、モデルチェンジを重ねながら今日まで続く。

『プレイバックPart2』に登場するポルシェは1974年から生産された2代目、930型ではないかと思われる。
このタイプではエンジンはSOHC 3000tに変更され、ターボチャージャーを搭載、911ターボと通称される。
初代の2倍の260PS/5,500rpmのパワーを発揮。現在は7代目が生産されている。

フェアレディZ(初代) S30型
日産の名車と言えば、スカイライン(今はGT−R)とこのフェアレディZかな?
S30型は「フェアレディ」に「Z」が付き、フェアレディZとなった第1発目の車種。
「Z」はアルファベットの最後の字、「究極の」を意味する。その思いが込められているのだろう。
「Z」を名乗る車、いくつかあるが、フェアレディZのZを超えるものはないだろう。
普通「Z]と言えば、フェアレディを指すのが一般的だろう。

1969年販売を開始。40年以上も前の車であるが、デザインは素晴らしい。
現行モデルより優れているんじゃないかと思う。
このS30型がアメリカを中心に大ヒットし、今日につながる世界的名声を確立した。
開発・販売を企画担当は、1960年代当時、米国日産の社長であった片山豊。想定はジャガーやポルシェとアメリカの広大な市場で渡り合えるものとした。
スタイリングはもとより、軽量モノコックボディ、前後輪ともストラット式サスペンションによる四輪独立懸架を採用。
スタイリングは、田村久米雄案を採用、ボディ先端を削ってヘッドランプを装備したかのようなデザインは現行モデルまで踏襲されている。
エンジンはSOHCL型・水冷直列6気筒を搭載した。当初は2Lのエンジン、L20型であったが、2.4Lモデルが登場、

最高120mphで、性能的にはヨーロッパ製のスポーツカーよりは劣ったが、エンジンのメンテナンスが容易であり、低速域からのトルクに富み扱いやすく、故障も少なく信頼性も高かった点で凌駕した。
最終的には2.8Lのものも登場した。
新車販売価格が廉価版の「Z」が84万円とスポーツカーとしては比較的安価であったことで爆発的にヒットした。
Z240は1971年発売、それまで輸出専用であったL24型エンジンを搭載したタイプである。
S30型は10年の長期に渡って生産され、世界総販売台数55万台(うち日本国内販売8万台)という、当時のスポーツカーとしては空前の記録を樹立した。
モデルは1971年発売の240Z改。

ミラ ウォークスルーバン
ウォークスルーバン(Walk-through Van)は商用車のパターンの1つ。
今の代表といえば、ヤマト運輸が使う「トヨタ クイックデリバリー」だろう。
英語ではウォークインバン(Walk-in van)という。
郵便や宅配便などの集配業務は、乗降と仕分けが頻繁であり、一連の作業の省力化を図るために考案された車種。

乗員が運転席と荷室の間を、車から降りることなく自由に行き来でき、かつ、荷室では立ったまま作業することができる構造を持つ。
このため、他の寸法に比較して全高が特に高い外観となるのが特徴。
運転席ドアは、開閉が頻繁で、歩行者や他車、軒や壁、標識、電柱、街路樹などとの接触事故を防ぐことと、狭い場所での乗降に便利なように引き戸や折戸が用いられていることが多い。
欧州が発祥であるが、日本では戦前に三越百貨店が配達用として日産に注文した80型トラック特装バンが始めてという。

戦後では1968年(昭和43年)にエルフ ハイルーフという車種が登場し、1982年(昭和57年)にヤマト運輸用にトヨタが造ったクイックデリバリーが登場している。
そして、その波は軽自動車にも及び、1984年(昭和59年)、ダイハツ・ミラをベースにミラ ウォークスルーバンが登場し、実用性と経済性の高さで大ヒットし1998年(平成10年)まで製造された。
郊外大型店やスーパー等の駐車場でシュークリーム屋さん、焼き鳥屋さん、メロンパン屋さん、弁当屋さんなどの営業してましたなあ。

ミラ ウォークスルーバンは、軽量化と室内容積確保のため、ドアは内開き式の折戸が採用され、左側のみに配置されている。

バックドアには3枚折戸と上下開きの2種類がある。基本的には1人乗り。
最大高は2.0mに制限されるが、床を低くし使いかってをよくするとともに、小回りも効く。
この成功でスズキ・アルトと三菱・ミニカにもウォークスルーバンが登場したが、ミラには劣り消滅している。