昭和30年代の名車 

Volkswagen Type 1
伝説の自動車屋、フェルディナント・ポルシェが設計し、ドイツのフォルクスワーゲン社によって製造された小型自動車。
通称「カブトムシ」。ドイツ語を直訳すると「国民車」。同時に製造する会社の名前でもあり、ここがややこしい。
もちろん、誰もが知っている自動車史に残る名車の1つである。
あの独特の空冷エンジン音が懐かしい。
1938年に生産を開始、2003年に生産を終了。四輪自動車世界最多の生産台数2152万9464台という大記録を持つ伝説の車。

この自動車にはポルシェとともにあのアドルフ・ヒトラーが係ることでも知られる。こと独裁者としての悪名高いヒトラーではあるが、この車に係ったことは数少ない評価される業績といえよう。
開発のきっかけがヒトラーなのである。
ポルシェの高性能小型大衆車実現のプランが、ヒトラーのアウトバーン建設と国民車構想の計画と一致したことが開発の始点である。
ヒトラーのこの政策は国民全員が自動車を所有できるようにする夢でナチス党が国民の支持を得るのが目的であった。
ヒトラーは、ポルシェに国民車の設計を依頼。
ポルシェはダイムラー・ベンツからの独立後、「フォルクスワーゲンの原型」と言うべきリアエンジン方式の小型車開発に取り組んでいたが、予算不足や不景気で挫折気味であり、ヒトラーの提案は「渡りに船」であった。
ヒトラーの支援で1938年に量産型の原型が完成し、生産体制の整備が始められたが、第二次世界大戦勃発で民生用量産は頓挫、製造工場は軍用のキューベルワーゲンやシュビムワーゲン製造用になったが、一部、軍用にフォルクスワーゲンが製造された。
これらの車は灼熱のアフリカの砂漠で極寒のロシアの大地を走り回り、その性能を十分に発揮した。
この時点ですでに 頑丈で故障が少ない,4人乗車も可能、 連続巡航速度100km/h以上、高燃費、 空冷エンジンの採用、流線型ボディの採用等、1930年代におけるもっとも進歩した小型乗用車としての進歩性を有しており、これが長年にわたって世界的な自動車市場の第一線で競争力を維持できた大きな要因であったという。
しかし、ドイツ敗戦で工場も被災。
戦後、ドイツの工業設備は連合国に持ち去られるが、なぜかフォルクスワーゲン工場は無視される。
この車の先進性が理解できなかったためという、このため、工場はすぐに復旧し、敗戦した年、1945年からすでに本格生産が始まる。
さらに、輸出戦略が功を奏し、国外への輸出も成功を収め、外貨獲得によって、戦後の西ドイツ経済の復興に大きく貢献した。
頑丈で悪路や厳しい気候でも酷使に耐え、材質・工作が優秀で整備性も良く、大人4人を乗せて経済的に高速巡航できるこの車の性能と品質は、世界各国の新型小型乗用車を凌駕し、元々、アウトバーンを想定した100km/h以上での高速連続巡航というコンセプトが、戦後のハイウェイ時代到来をすでに取り込んでいたいたことによる。
改良は順次行なわれ、エンジン排気量も当初の1.0Lがすぐ1.1Lへ拡大、1.2L、1.3L、1.5Lと拡大、最終的には1.6Lとなっている。
しかし、さすがのこの車も年月が経つと、改良も限界を向かえ、ついには製造の終了を迎える。
1978年本国での製造が終わったが、メキシコでは2003年まで製造された。

クラウン 初代 RS型
トヨタの車の中で最上級モデルがどれかというとなると、最近はレクサス等、色々な車が出ているので一概には言えないが、そのイメージを長く担い、「いつかはクラウン」のキャッチコピーに象徴されるように、昔からクラウンは高級車として認知されている。
当然、トヨタ自動車を代表する車種の一つであり、高級車はクラウン、小型車はカローラ、2本柱の1本である。
官公庁などの公用車や多くの企業の社用車もクラウンが圧倒的に多い。社長さんには似合う車である。
したがって、後部座席に乗る車とも言える。これもステータスだろう。
運転席に座るのもそれなりの社会的地位など貫禄がある者じゃないと似合わない。
成金や土建屋のおっさんやアンチャンじゃ、全く不釣合いである。
でも、それを理解していないばかアンチャンも多い。クラウンを運転していれば、自分もエライと勘違いしているようだ。
逆に見れば、頭が軽いことが、車とのアンバランスで際立っているのに・・・・これは喜劇であり、悲劇である。
そんなクラウン、現在のものは13代目だそうだ。
残念ながら今のクラウン、どこか成金趣味的であり、金があっても乗る気にはならない。
しかし、初代のモデル、これはいい!

クラウンの歴史は古く、開発は昭和27年(1952)に遡る。チーフは中村健也さんという方、トヨタの独自の社内デザインであったが、スタイル等に当時の高級アメ車の影響は濃厚であった。
観音開きのサイドドアが特徴。
エンジンは昭和28年(1953)発売のトヨペット・スーパーの水冷直列4気筒OHVのR型、排気量は1453cc、出力は48psであった。
現在の同排気量のエンジン性能とは比較はできないものであるが、当時としては最先端のメカであったのだろう。

コラムシフトの3速マニュアル変速、FRで最高速度は100km/h。
車両重量1210kg。発売開始は昭和30年(1955)であった。
まだ、高度成長期の手前。当時、道は舗装されていなく、フロントにコイルスプリングによるダブルウィッシュボーン式の独立懸架サスペンションを採用、リアはリジッドアクスル(固定車軸)を半楕円リーフスプリングで吊る車軸懸架方式を採用し、当時の日本の悪路に耐えるようにしたという。
スタイルは今とは隔世の感がある古風な「ずんぐりむっくり」という感じ。

だいたい博物館で見る当時の高級車は似たような感じである。
でもそれが、凄く貫禄を出している。当時の人には高級感を感じさせたのであろう。(Wikipedia等を参考)

マツダR360クーペ
3輪トラックメーカーだったマツダ(当時は東洋工業)が昭和35年(1960)に始めて発売した4輪乗用車、軽自動車ではあるが、戦後の日本車として、初めて「クーペ」を名乗った(戦前ではダットサンにクーペモデルが存在したという。)。
半世紀以上前の車であるが、なかなかいいスタイルをしている。現在でも十分通用しそうである。
これから高度成長時が始まるという時期にこれだけの遊び心のある車が出現していたことも驚きである。

でも実用性はほとんどない。ハント用という感じ。そのためにこの車を買った現在、ジジイになっているスケベがいるはず。
当時、こんな車を買ったのなら、筋金入りの「スケベ」であり、尊敬に値する。

そういえば、ダイハツのコパンが似た感じであるが・・いや、R360の方がデザイン的に優れている気もする。
デザインは小杉二郎らによる。
尖ったノーズと凹んだヘッドライト回りの処理は、マツダ製オート三輪を踏襲したという。スマートである。

価格は30万円で、当時のスバル360より安い。
メカ開発は、後にロータリーエンジンを開発した山本健一である。
一応、4人乗りであるが、後部は狭く、子供向け。
実質、2シーターである。

非力なエンジンをカバーするため、軽量化が徹底され、アルミニウム合金、マグネシウム合金、プラスチックなどの軽量な素材を多く用いている。
エンジンはオート三輪、K360の排気量356cc 、16馬力の強制空冷 V型2気筒 4ストローク OHV エンジンを共用したが、K360の鋳鉄製からアルミ合金製に替えている。

また動弁機構や補機類はマグネシウム合金に替え、許容回転数は最大5,000rpmを超える高回転エンジンであった。

このエンジンは車体後部に縦置きし、後輪を駆動するリアエンジン方式を採用している。
また、この車は4速マニュアルが基本であるが、軽自動車初のオートマ車が設定され、身体障害者でも運転できるようにした。
こんなに早い時期にアートマの軽自動車が存在したことは驚きである。

安価のスポーツ車として人気は高かったが、実用性があるライバル、スバル360に対しては不利であり、2年後に発売された「キャロル」に主力の座を譲る。

しかし、1966年まで生産が続けられ、AT車は1969年まで受注生産され、総生産台数は65,737台に達する。

スバル360
名車と言われる自動車はいくつかあるが、スバル360、間違いなく日本を代表する名車である。
その証拠に製造をやめて40年は経つのに今だ人々が名前と形を記憶しており、熱烈なファンを持つ。
名車たる由縁は性能ではない(発売当時の水準では群を抜いた性能ではあったが。)。
社会的な位置付けである。
この車は日本のモータリゼイションのはしりであり、その出現により日本に大衆自動車時代が始まったと言っても良いだろう。
「マイカー」という言葉はこの車によって生まれた。それがカローラ/サニーでさらに発展し、今に至っている。
管理人の従兄弟もオーナーであり、宝物として大切に保管している。
かあちゃんの昔のアルバムを見たら、幼い姿の後ろにスバル360が写っていた写真があった。親父さんが始めて所有した車がこのクルマであった。
このクルマ、道路を走っていたら間違いなく目を引くだろう。近代文化遺産とも言えるだろう。
その懐かしいスバル360の模型。ボディカラーが失敗した。なんと「フェラーリレッド」。
絶対スバル360には有り得ない色である。・・まあ、いっか!でもいい形しているねえ。この個性。


マツダ キャロル
R360クーペの後継車種である。
現在もキャロルは販売されている。

でも、中身はスズキのアルトである。
しかし、マツダキャロルと言えば、リアウインドウが垂直になっている初代に限る。

今の車はどこのメーカーも似たような感じのものが多く、個性が感じられないが、当時の車は個々の個性がはっきりしていた。
キャロルはこの「クリフカット」が特徴、これこそがキャロルである。
もう、40年以上も前に生産が打ち切られ、今では現役はほとんど存在していないだろう。
30年ほど前に現役で走っているキャロルを見て、驚いたくらいである。
あの自動車史に残る名車「スバル360」のライバルと目されたのが、このキャロル。
でも、残念ながらスバル360を越えることはできなかった。
1962年(昭和37年)製造開始。
翌年に4ドアが発売され、これが大ヒットした。

軽乗用車であるが、普通乗用車並のボンネット、キャビン、エンジンルームを分離した「完全3ボックススタイル」と垂直のリアウインドウのガラス「クリフカット」が特徴。
エンジンは360cc水冷 4ストローク 直列4気筒 OHV、18PS、R360同様、後部にエンジンを積載し、後輪駆動式のRR。

当時、水冷の4気筒・4ストロークOHVエンジンは、ハイメカ高性能なものであった。
しかし、車体は丈夫でったが、スバル360と比べると150kgも重かった。
これが致命傷であり、最後まで尾を引いた。
車内も狭く乗員には窮屈であったと言われる。

一時はスバル360の牙城を脅かしたが、車重の重さによる動力性能不足がネックとなり、スバルの軽量ボディ車、デラックス仕様車投入と値下げ攻勢、ホンダのN360の登場などで販売は徐々に低下、マイナーチェンジも打開策とならず1970年(昭和45年)に生産が停止。
しかし、アルトを使って1989年(平成元年)に19年ぶりにそのブランド名が復活した。

ブルーバード1000
今から見れば、形はダサイが当時はこれが普通だったのだろう。
逆に今、こんな車が走っていたら目立つだろう。
この車で親父が海に山に連れて行ってくれたもんだ。
しかし、当時の道路は1級国道以外は未舗装が多く、後ろを見るともうもうと砂ほこりが上がっていた記憶がある。
おかげで酔って吐いた記憶がある。よくパンクもそれほどしなかったものである。
当然、エアコンなど付いているはずはないのだが、暑かったという記憶もない。
エンジン排気量は1000CCしかなかったのだ。今じゃ、コンパクトカーでも1200、1300CCが主力である。
エンジンは小さいものであるが、当時としてはなかなか走りはよかったという。
このブルーバード1000は1959年から1963年に製造された。
前回の東京オリンピックの前のころだ。
発売当初の名称が「ダットサン・ブルーバード」。
ここからトヨタ・コロナとの1960年代から1970年代にかけて展開された熾烈な販売競争は「BC戦争」が始まる。
通称は「ブル」。その後、モデルチェンジを繰り返し、最後、ブルーバードシルフィとなり、2012年12月のフルモデルチェンジで「ブルーバード」名は消え、「シルフィ」となり、53年の歴史に幕を下ろした。
しかし、この響きの良い名前、いつか復活するのではないかと思う。

ブルーバード1000は4ドアセダンのみが設定され、乗員は5名。
駆動方式はFRで3速MT。グレード構成は、1000ccはSTD、1200ccはSTDとDX。
設計は佐藤章蔵。市場の評判は良好だったという。
セミモノコックボディと低床式ラダーフレームとを組合せて軽量化と強度確保を図り、部品の多くはダットサントラックとの共用で、十分な信頼性を備えるとともにコストダウンを図って。
エンジンは先代のダットサン・セダン210型から踏襲された「C1型」(水冷 直列4気筒 OHV 988cc 34PS / 4,400rpm)を主力に設定。
後にストロークを再拡大し、1189cc ( 43PS / 4,400rpm ) とした「E1型」も設定(P311 / WP311型)した。1200ccクラスのエンジン設定の理由は、アメリカ合衆国への輸出を想定したものという。

フェアレディ2000 SR311
フェアレディは日本を代表するスポーツカーとして50年以上、自動車業界に君臨しており、今もそのステータスは健在である。
多くの車愛好者の憧れでもあるだろう。
技術史やデザインの面では歴史を作った車であることには間違いないと思う。

現在、フェアレディには後ろに「Z」が付いているが、これは「Z」が付く前の最終形式の車である。
フェアレディの原型は1952年1月、発売の DC-3直列4気筒860ccのSVエンジン搭載の「ダットサン・スポーツ」 、そのエンジンが1000tとなり「ダットサン・スポーツ1000」としてが発売され、そして1960年1月 「フェアレディ1200」が発表された。
フェアレディの名を冠した最初の車がSPL212型である。

車名はミュージカル「マイ・フェア・レディ」に由来、当時の日産の社長、川又克二が前年に渡米した際、ブロードウェーでの同ミュージカルの観覧で感銘を受けたことからの命名したという。
さらにエンジンが1500、1600ccにアップし、 1967年3月 この「フェアレディ2000」(SR311型)が発売される。
今の3700ccの気違いじみたエンジンとは比べ物にならないが、当時、最高水準の 直列4気筒SOHC U20型エンジン(1982cc 145馬力/6000rpm)を搭載、ポルシェタイプシンクロを持った5速トランスミッションを搭載し、最高速度は205km/h、国産初の200km/hを越える車となった。
この車が「Z」が付く前の最終形式の車で「フェアレディ」の完成形と賞賛される。
テレビコマーシャルは杉山登志らが制作し、数々の賞を受賞したことでも知られる。



パブリカ
現在のヴィッツの元祖である。
ちなみにパブリカの後継車がスターレットであり、その後継がヴィッツ。
つまりヴィッツのジイサンにあたる車である。
パブリカが製造されたのは1961年から1978年まで。17年の長きにわたる歴史を持つ車である。
ネーミングは、当然造語。
「大衆車」を意味する英語「パブリック・カー」(Public car)の略語であることはすぐ分かる。
しかし、どうしてもあの野菜「パプリカ」を連想してしまうのだが。
ちょっと、このネーミングは「音」「響き」が良くない感じもするのだが。

トヨタの小型乗用車の代表といえば「カローラ」であるが、パブリカはその下のグレードに位置する。
1955年に当時の通商産業省の国民車構想、いわゆる「日本版フォルクスワーゲン計画」が開発のヒントであったという。
この計画は当時の自動車メーカーは技術、コスト面で実現が難しく、各メーカーは開発に難色を示していたが、その構想自体は、メーカーに大きな刺激を与え、その結果、トヨタも小型の車の開発に着手した。
トヨタは前輪駆動(FF)方式の採用を狙ったがトラブルが続きで断念、後輪駆動(FR)方式を採用、フル・モノコック構造のボディを採用。ゆとりのあるトランクルームを備え、車体重量も580kgに抑えることに成功した。
このため、エンジンも軽量化した新開発エンジンを採用。
697cc、強制空冷水平対向2気筒OHVエンジン、最高出力28ps/4,300rpm、最高速度110km/hを実現した。
なお、トヨタ車で空冷エンジンを採用したのはパブリカのみである。
しかし、エンジンの軽量小型化は実現できたが、冷却対策に苦慮、騒音や暖房能力に課題を残した。
1961年6月発売当時のセダンの価格は38.9万円であった。
しかし、価格を低く抑えるため、ラジオ、ヒーターなども省略されたため、販売台数は低迷し、対抗した軽自動車各車がデラックス化を進めたため、苦戦した。
結果、軽自動車へと流れた。
翌1962年にバンとAT車を投入、さらにスポーツタイプの「パブリカスポーツ」から1965年に「トヨタ・スポーツ800」通称「ヨタハチ」が生まれる。
1963年、内装を充実させた「デラックス」の登場で販売はようやく上向き、月販数は3,000 - 4,000台に増加。1964年2月にはトラックモデルを追加。
1966年、排気量を800ccに拡大し、価格も合理化と量産効果で販売価格が1967年にはスタンダードの価格は35.9万円となった。

1969年4月にモデルチェンジした二代目では初代カローラの1100ccの小型版1000t水冷直列4気筒エンジンを採用。
トヨタ系列となったダイハツ工業からはパブリカと同一ボディのコンソルテが発売されたが、エンジンはダイハツコンパーノの1,000ccエンジンが搭載された。

1972年1月のマイナーチェンジでは2U型空冷2気筒800ccエンジンを搭載するモデルは、乗用車排出ガス規制のクリアが困難との見通しから廃止されている。
1973年4月にスポーツバージョン、パブリカ・スターレットが登場し、1978年2月、スターレットに完全移行し、生産を終了した。
なお、商用バンタイプ、ピックアップは変更を加えながら1988年まで生産された。

いすゞベレット(BELLETT )
いすゞが1963年から10年間にわたり製造したFRの小型乗用車である。
いすゞの上級モデルにベレルがあり、その小型版という意味という。
エンジンは色々なタイプのものを搭載し、バラエティがあるが、何と言っても魅力は1600tのDOHCエンジンを搭載を搭載したこのGT-Rだろう。
今では軽自動車のエンジンもDOHCであったが、当時はDOHCエンジンなどレーシングカーなどに使われる高性能エンジンの代名詞。
DOHCとは当時はハイメカの象徴。憧れと羨望の魔力を持つ魔法の言葉であった。

そんなベレット、いすゞの技術者が中心となって企画、設計製作が行われ、多くの新機軸を盛り込んだ。
外観は好みが分かれるが、今ではちょっと古っぽい感じもする。
外観は卵の殻をモチーフにデザインされたといい丸みが強くコンパクト。
車体重量も1t以下と軽量であり、サーキットでも強かった要素の1つがこの軽さ。

手堅く平凡な設計のベレルと異なり、当時の様々な新機軸が取り入れられており、個性の強い小型乗用車となっている。
乗用車初のディスクブレーキ、四輪独立懸架を採用し、抜群の運動性能を示し、「和製アルファ・ロメオ」との異名もとった。

日本で初めてGT(グランツーリスモ)を名乗ったモデルを設定したが、いすゞにはそれほどの競争力はなく、他社が高性能の新車を投入してきても、十分にマイナーチェンジもできなかった。
長期生産が続き、1970年代に入ると販売実績が低迷し、最後は自動車排出ガス規制に対応できず、1973年に生産が終了となった。
総生産台数は170,737台。うちGTは17,439台という。
エンジンはガソリンエンジン車は1,300cc、1,500cc、1,600cc 、1,800ccで、OHV、SOHC、DOHCの各種グレードがあり、1,800ccディーゼルエンジンモデルもあった。
この車の後継車が「ジェミニ」であるが、そのジェミニも今は製造が終了し、絶版となっている。
この名車の血を引く車はなくなってしまった。



ホンダS600

ホンダ特有のオートバイテイストをスポーツカーに持ち込んだ車である。
略称「S6(エスロク)」。
ホンダがS500をベースに1964年3月に生産を開始し、1965年12月まで生産したFR・2シーターのオープンスポーツカー。
ちょうど東京オリンピックのころである。

2輪やフォーミュラカーをベースにした独特のアイデアやメカニズムを持つ。
エンジンはすでにDOHCエンジンを搭載。当時としては夢のエンジンである。
水冷直4 DOHCエンジン606ccのAS285E型である。
このエンジンは2輪レースやF2、F1のエンジンでの経験を反映した設計の高回転エンジン。
当時としては珍しいDOHCと4連キャブレターを装備し、606ccながら回転数で馬力を出し、2輪用エンジンの様な特性であったという。

4連キャブレーターや等長エキゾーストマニホールドに当時のホンダF1の影響である。
駆動方式はFR、リアサスペンションは、2輪と同じ駆動用チェーンケースをトレーリングアームと兼用としたチェーンアクスルを採用している。
これにより優れた路面追従性を示した。
リアフェンダーの張り具合は芸者の臀部をイメージしたものともいわれている。
価格は50万9,000円だったそうであり、当時の物価としてはかなり高い。
後にエンジンは800CCにパワーアップされS800となった