茨城県那珂市谷津向遺跡の遺物について

谷津向遺跡は旧那珂町の北西、旧瓜連町との境付近にある縄文中期から後期にかけての巨大遺跡である。
この遺跡は、北に久慈川の低地を望む、南岸の台地(那珂台地)上の久慈川を直接眼下に望む場所ではなく、那珂台地を侵食した谷津沿いのやや内側に立地する。
この久慈川に面した台地縁部は、侵食され、複雑に谷津状の谷が入り組み、その谷沿いに夥しい縄文遺跡が立地する。
この点では、2qほど東に位置する山王原遺跡も同じである。
地名の「谷津向」もそのような地形から付けられたものと思われる。

この遺跡が形成された縄文中期から後期にかけてのころが、関東地方の縄文時代が最盛期であり、この谷津向遺跡のある久慈川水系にも巨大遺跡が多く形成される。
久慈川下流の南高野貝塚を始め、籠内遺跡等も巨大であるが、この谷津向遺跡も中途半端な規模ではない。
土器の散布状態から推定して東西450m、南北300m程度の広さはあると思われる。
当然、遺物の量も半端ではない。
畑には土器片が多く散布しており、畑の片隅には耕作で邪魔になった石等が積まれているが、その中に大量の土器片や石器の破損品が含まれる。

久慈川の低地は谷津を挟んで北側に台地(この台地に鹿島遺跡が立地する。)があり、久慈川はその北側である。
この遺跡から石錘等の漁労に係る遺物は採取していない。
久慈川からの距離も離れており、この遺跡は河川漁業には余り係らない遺跡であったようである。

この遺跡から出土する土器は縄文中期の加曾利E式から後期前半の堀の内式にかけての土器がほとんどである。
いずれも縄文時代の土器の典型的な模様である渦巻き紋を中心に大胆な突起部等の造形を持つものばかりである。
かなり東北的要素が含まれているような感じを受ける。
中には火炎土器の突起部に似たものもある。

口縁部の飾り部である。豪快な造形である。 左に同じ。右端の土器は胎土に雲母が多く、阿玉台式と思われる。 渦巻き紋がある土器。
縄文土器特有の渦巻き紋 後期堀の内式か?
口縁部の突起と思われるが、土偶の
ような感じである。
かなり大きな破片。大型土器であっ
たのであろう。
かなり分厚い。 薄くて大型の土器の破片。加曾利E期だろう。 火炎土器の突起部を思わせる。
口縁部の飾り。

石器は定角式磨製石斧が非常に多い。
当然ながらほとんどは破損品である。

竪穴式住居を建てるための木材加工用に多用したのではないだろうか。
所詮、石なので衝撃に弱く、破損も多かったのだろう。
しかし、石をここまで磨き込む労力は大変だっただろう。

打製石斧も多いが、こちらは竪穴式住居の穴堀用であろうか。
いずれにせよ大量の土器片、石斧の存在から建設ラッシュに沸く縄文時代最盛期の遺跡の姿が見えて来るようである。

典型的な分銅形打製石斧。
中期のものであろう。緑泥変岩製。
分銅形石斧の破損品 定角式磨製石斧の破損品をたたき石に再利用
したもの。
定角式磨製石斧破損品の刃部。結構鋭
いが、木を切るとなると荷重に絶えられず
破損も多かっただろう
ホルフェンス製打製石斧。この石材は硬くて
丈夫であるが、加工は大変だっ
ただろう。
定角式磨製石斧の破損品。砂岩製 定角式磨製石斧の破損品