梶内城と梶内遺跡・陣向遺跡(常陸大宮市(旧緒川村)那賀)

梶内城というより梶内遺跡・陣向遺跡と言った方が有名であろう。
御前山大橋から北に緒川を遡ると那珂通辰の居城であったといわれる那賀城がある。
梶内遺跡・陣向遺跡と複合する梶内城は那賀城のある台地から谷津を隔てて南側の台地にあったという。
那賀城の出城であったという。しかし、城郭遺構は見られない。

この地には、もう1つの説があり、ここが那賀国の郡衛の地であったというものである。
台地上の字名には「作」とつくものがいくつかある。この台地上にも「百合の作」という字がある。
この「作」は「柵」から転じたものという。
以上は「緒川村史」に書かれている説である。
この説ならこの梶内城というのは多賀城のような古代城館であったことになる。
しかし、現地を見た限りではこの説には疑問がある。
第一に郡衛があったなら、生活用具である土師器片が大量に見られるはずである。
管理人が踏査した限りにおいては、縄文土器片はかなり目にするが、土師器片はまったく目にしていないのである。
臨時の軍事施設である古代城館の「柵」が存在していたとすれば、生活遺物が伴っていないことも不思議ではない。
郡衛ではなく、地名の「作」は臨時の城砦「柵」の存在を意味しているのではないだろうか。
両説は時代が異なるため、2つとも真実である可能性はある。
中世、梶内城説は、この岡の小字の陣向(じんこう)、南陣が城と関係していると思われるが、
地元の人に聞いても城があったという伝承はないという。

ただし、この岡の西側にせり出している山の名が「館山」という名である。
城の存在の状況証拠としてはかなり有力である。

那賀城の防衛上も、南側のこの平坦な岡をほっておくことはない。
岡の周囲は急傾斜であるため、土塁を設けなくても岡の縁に柵を巡らせるだけで外郭陣地としては十分かもしれない。
南北朝時代に那賀城に集合した南朝方の軍勢が一時的に陣を敷いた宿営地であったのかもしれない。
現在は一面、広い台地が広がっているだけである。
しかし、この地の地形が、岩手県衣川村の安倍氏の館、「衣川館」の地形にそっくりなのは偶然だろうか?

この岡、居住する場所としては非常に恵まれた条件が揃っている。
この台地の標高は75m、東を流れる緒川の標高が40mほどであるので川面からの比高は35mある。
台地の東側は崖上であるが、台地上は東西400m、南北250mの広さがあり、一面の畑である。
岡を下れば、鮭が昇る緒川が流れ、西の山に入れば、山の幸も豊富である。水害、山崩れの心配もない。

この台地が縄文時代中期から後期にかけての遺跡である梶内遺跡、陣向遺跡と複合していることは先に述べたとおりである。
道端には耕作で邪魔になった石が積み上げられているが、その中に土器片等が多く見られる。それもかなりの量である。
少し歩いただけで、袋が満杯になる位の量である。

これらの土器は、東北地方の大木式の影響を伺わせる縄文中期の加曽利E式や後期の堀の内式やその並行時期の土器である。
この時期は北関東でも巨大遺跡が多く作られるが、この遺跡もそのうちの1つである。

石斧(左)と石剣破損品 ホルフェンス製石斧 このようなメノウの大きな破片が多く見られる。
珪質頁岩製の大きな残核 スクレイパーや石鏃 採取される土器は阿玉台、加曾利E系、堀の内系
であり、東北地方の土器の要素が入っている。
蜂の巣石1 蜂の巣石2 蜂の巣石3

土器はこの期間のみのものが確認されるだけである。
それ以外の弥生時代、古墳時代を含めても縄文中期後半〜後期初頭以外の時期の遺物は見られない。
縄文中期後半〜後期初頭の時期のみ隆盛を極め、突如廃棄されてしまった遺跡であろう。

土器片とともに同時にチャートやめのうの破片が多く見られる。
平地の遺跡ではチップ程度の大きさの破片がほとんどであるが、ここのはこぶし大の大きさの塊が多数見られる。
この付近の岩盤はチャートであり、すこし北東の山方方面は「めのう」の産地であり、豊富な石材に恵まれている地である。
さすがに産地だけあり、使い方も豪快そのもの、一部を剥離しただけで残りはポイという贅沢さである。
盛んに石器の製造が行われていたものと思われる。
おそらく、石のカワを剥離させただけの1次加工原料としてあるいは製品として交易に使われたのであろう。
その点では石器素材供給基地であったのかもしれない。

東下を流れる那珂川の支流、緒川は鮭が上がると思われるが、鮭漁に使われていたと思われる石錘は見つけられなかった。
台地の西側は山地であり、山の幸にも恵まれていそうである。
なお、石の中には在地性とは思えない珪質頁岩の石核も結構見られる。
石器で多いのは窪石、蜂の巣石である。
石斧も当然存在するがそれほどの量は採取できなかった。
チャートやめのうの剥片にも石斧のようなものがあり、これらの小型剥片石器用の石材を石斧にしていた可能性もある。
産地ならではの贅沢である。
石棒・石剣も見られる。石剣などは後期に特徴的な石器であり、同時期の土器として出土する堀の内式土器のころのものであろう。
火起しに使ったという「蜂の巣石」がやたら多く見られるのもこの遺跡の特徴である。
3点のみ紹介するが、もっと沢山拾っている。

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