常陸太田市幡町台出土の土器及び石器についてW
弥生時代以降の土器
1 はじめに
 
Vでは幡台地南端部付近で採取した弥生土器及び石器について報告した。
本章ではそれに引き続いて幡台地南端部で出土あるいは採取した土師式土器等を中心とした弥生時代以降の土器について報告する。

2 土器出土場所とその周辺

 幡台地の位置と環境については,前章までに記述したので省略する。

古墳時代の幡台地については遺構に事欠かない。
台地全体に古墳群が築かれ、幡台地南端部付近には、現在はほとんど隠滅状態にあるが、幡第一古墳群が存在する。
南側、東側の斜面、崖面には横穴群が存在し、中には線刻壁画を持つものもある。
北側には須恵器窯跡が存在する。
また、台地上で「長幡部族」という機織を業とする一族が居住し、機織が行われていたことが「常陸風土記」に記述されている。
この機織が行われていた場所は調査箇所の北側の地点と言われている。
さらに、機織に従事していた者の信仰を集めたという「長幡部神社」の存在が延喜式に見られ、同社が調査地区の南端に存在する。
西側の里川沿いには条里制の跡も見られ、当時、かなり繁栄していた土地であったと思われる。
この様な周辺状況であるため、台地の広い範囲に住居跡等の当時の遺跡が存在していると考えられ、それを裏付けるように幡台地南端部の畑には広い範囲に土器片が散布している。
それらの土器片には全章までに紹介した縄文土器、弥生土器も含まれるが、薄手で無紋な古墳時代の土師式土器が大半を占めている。
ただし、それらは長年の耕作により小片化しており器形を推定できるものは少ない。
須恵器の破片も見受けられる。 

 U、Vで述べたように,幡台地最南端部付近から各時代にわたる大量の土器片が出土したが、出土した土器片のうち,古墳時代初期の五領式土器が25%程度存在する。
土器片が出土した土坑及びその状況についてもUで述べたので省略する。
このような土師式土器の出土は前述の立地状況のため当然有り得ることである。
また、付近の畑を若干深く掘れば、場所に係わらず、どこからでも大きな土師器の破片が出土する。

4 発掘調査報告書に見る幡台地の土師式土器等についての記述

 幡台地上の遺跡では,過去に幡山古墳群の発掘,築崎貝塚の発掘において土師式土器の出土が確認されている。
このうち,幡山古墳群の発掘では鬼高式の土師式土器や須恵器が,築崎貝塚の発掘においては,多量の土師式土器片が検出されている。
それらの土器は五領式、鬼高式を含むが、国分式が多数であったと報告され、付近に集落跡の存在を予測している。

5  土坑内から出土した弥生式土器について

 土坑内からは,弥生時代後期の土器が最も多く出土したが、それに続く時期の土器である古墳時代の土師式土器も見られた。
しかし、出土した土師式土器のほとんどは破片であり、しかも縄文、弥生式土器のような特徴的な模様もないため、器形や型式を特定することは困難であった。
また、多くの破片は、土抗から出土した縄文、弥生式土器片同様、縁部が磨耗しているものが多かった。
おそらく、周囲に散布していた破片を集めてこの土抗に投棄したものと思われる。
 土坑内から出土した土師式土器は図5−1に示すような破片がほとんどであったが、ほとんどの土器には表面を刷毛で整形した痕が見られる。

図5−1 土坑内出土の土師式土器 図5−2 土坑内からの五領式土器口縁部の出土状態
その中でも1点のみではあるが古墳時代初期の土師式土器である五領式土器の口縁部が出土している。
本土器の出土状態を図5−2に土器の写真を図5−3に示す。本土器は口縁部の口径が20cm程度あり、高さ8cmの二重口縁が見られる。
表面には朱塗りされた痕が若干残る。完形品としては高さ60cm程度の大型の壷である。
出土状態は口縁部を下にした状態であり、本土器と接合する土器片は土坑からは出土していない。
明らかに土坑内に遺棄されたものと考えられる。
図5−3 土坑より出土した五領式土器

この土器はわずかであるが朱塗りの痕が見られるが、朱塗りが明瞭に残る彩色土器も数片確認された。
これらを図5−4に示す。

図5−4 土坑内出土の彩色土器片

6.土坑付近で採取した土師式土器及び須恵器 

土坑外でも土師式土器の破片は普遍的に畑などで確認されるが、耕作時に深く掘った場合などにはかなり大きな破片等が出土する。
図6−1はF地区で出土した壷である。

この土器の高さは18cm、口縁部口径は10cm、胴部最大径は15cm、最大厚さ6mmを測る。
出土した時は底部の大きな破片の中に他の破片を重ねて入れた状態であった。
このような破棄の仕方は現在でもほとんど同じであることが興味深い。
種や籾の収納等に使用していたものと思われる。

口縁部が外側に広がるタイプではなく、ほぼ直立するタイプである。
この様な形状は須恵器の壷に良く見られ、須恵器の影響が感じられ、7世紀頃の鬼高式と思われる。

図6−1 壷形土器

図6−2から図6−7にその他の土師式土器を示す。

図6−2 土師器片1 図6−3 土師器片2            図6−4 台付き杯

図6−2、6−3は壷の破片と考えられる。
図6−2はのC地区で、図6−3はE地区で出土したものである。図6−4、6−5は台付きの杯と思われる。
図6−4は内面が黒く処理され液体を入れたものと思われる。いずれも鬼高式の土器と考えられ、幡台地に古墳群が形成された頃のものと推定される。
図6−4、6−5はF地区の出土である。

                図6−5 台付き杯 図6−6 土器底部の糸切り痕 図6−7 台付き杯

 図6−6は底部に糸切り痕が見られ、轆轤で作られたことが伺える。色は全体的に白い。
図6−7は台付きの杯であるが、図6−4、6−5の土器に比べて硬質であり、より時代の新しい国分式と思われる。
図6−4、6−5ともC地区の出土である。      

師式土器の他に須恵器の破片も台地南端部一体の畑で散見される。
これを図6−7に示す。
いずれも比較的大型の壷等の破片であり、内面に叩き具をあて、外面から叩き板で叩いて調整した叩き整形による同心円等の模様が見られる。
また、叩き整形を用いない薄手、小型の須恵器片も見られる。

幡古墳群や横穴群の発掘調査でも須恵器は多く出土しており、北側1kmには幡山須恵器窯跡も存在するため、これらは幡須恵器窯跡で焼成されたものの可能性が大きい。
土器類以外の古墳時代以降の遺物と考えられるものに鉄滓がある。図6−8はC地区の畑で採取したものである。
図6−7 須恵器片 図6−8 鉄滓

 時代については必ずしも土師式土器や須恵器と同時期のものとは限らなく、中世まで時代が下る可能性もある。
近くに製鉄施設が存在していた可能性も否定できないが、還元した銑鉄の塊を搬入して鍛造加工を行っていたことも考えられる。


(追加)
上記レポート作成後、下記の遺物を採取したので追加で掲載しておく。
左の写真2点は、土メンコと言われるものである。江戸時代の玩具である。鬼のような顔が描かれている。
右の2点は磨製石斧である。2点ともE地区で採取したものである。右端のものは側面を擦切りにより、切断され、全体的に湾曲する。
この地区からは縄文後期の土器も出土し、技法も縄文後期のものであるので、縄文後期の所産と推定される。



鉄滓(てつさい)の分析結果について 2019.9.9
図6-8に掲載している「鉄滓」とは製鉄時に出てくるカス、たたら製鉄では砂鉄と木炭を炉にいれて燃焼し、砂鉄を還元して鉄を製造するが、この際、砂鉄中に含まれる不純物は高温で熔融し、スラッグ(鉱滓、ノロ)として排出されたものである。
製錬で砂鉄の約半分は還元されて鉄となるが、残りは高温(1200℃以上)で炉壁の粘土と反応し、シリカ系の融体を作り鉄滓に溶け込む。
したがって、砂鉄中の不純物と摩耗して混入した炉壁材成分が含まれることになる。

この鉄滓の出どころであるが、古墳時代の鍛冶あるいは戦国時代の刀鍛冶のどちらかのものと思われる。国学院大学の小倉名誉教授の見解は前者だった。
しかし、両者の間には数百年の隔たりがある。
古墳時代の可能性の根拠としてはその時代の土器が共伴することであり、常陸風土記にもここで機織りが行われていたことが記載されている。

戦国時代のもの可能性としては、横の市道拡張工事に伴う発掘で当時の墓が見つかったことと、南150mに佐竹氏家臣の幡館があるというのが状況証拠である。
もちろん、それ以外の可能性もあるだろう。平安時代や鎌倉時代に鍛冶屋があったかもしれない。

その成分を分析した装置が蛍光X線分析装置である。

その成分分析結果は Na2O3:14.8%(−)、MgO:9.4%(0.7〜2.4)、Al2O3:16.4%(6〜7)、SiO2:11.4%(25〜28)、CaO:0.4%(2〜3)、TiO:0.04%(3〜20)、Mn:0.2%(0.6〜2)、Fe2O3:45.3%(36〜55)であった。
単位:重量%、( )は一般的なたたら製鉄で生じた鉄滓の分析値範囲(日立金属のHPより)

これによると主成分が鉄であり、含まれる量も一般的な鉄滓と変わらない。
しかし、酸化Na、酸化Mg 、アルミナがやたら多く、シリカ、酸化カルシウム、酸化チタン、マンガンはごく少量であり、一般的な鉄滓とは不純物成分がかなり違うのである。
この理由は分からない。
鉄滓に近いものに近代製鉄における製鋼(精錬)スラグがあるが、これらと成分量はアルミナ、シリカ量は似た範囲にあるが、他の成分は一致しない。特に酸化カルシウムが全く一致しないし、鉄はスラグでは多くても30%。
したがって、たたら製鉄に伴うものの産物の公算が大きいように思われる。しかし、酸化Naはどこから来たのか?

で、この分析結果でいったい何が分かるか?結局、数値だけでは何時頃、何に使ったものか分からない。
でも何がどれくらい入っているかは分かった。
それだけである。

(完)

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