常陸太田市幡町台出土の土器及び石器についてU(その2)

縄文時代の石器及び遺跡立地論

7. 石器について

 幡台地上には,各時代の土器片と伴にチャ−トやめのうの破片も多く散布している。
そして、それらの中には当然ながら石鏃,石斧等の石器類も混じっている。
これらの石器の中には,前報で紹介した旧石器も稀に確認することができる。
また,若干ではあるが,明らかに弥生時代の所産である石器も確認される。
しかし,石鏃等の定型石器のみに限定すると,圧倒的に縄文時代に比定される石器の数量が卓越している。
この傾向及び弥生時代においては道具類の素材として木(一部,金属)の使用が盛んになる事実から推論すると,定型石器以外の不定型石器や時代の比定が困難な石器類もほとんども縄文時代の所産であると考えるのが妥当と考えられる。
したがって、チャ−トやめのうの破片もこれらの縄文石器類製作時の素材あるいは,製作に伴い生じたものが大半であると考えて良いと思われる。
本節では,(ほぼ縄文時代の所産と考えられる)石器の概要とその採取場所との関係を述べる。
次に第8節において石材別の剥片の量等から台地に持ち込まれた石材の搬入経路等の推定を行う。
さらに第9節において幡台地南部における縄文時代の遺跡立地の変化について考察する。

7−1 土坑内出土の石器類につい
土坑内出土の石器類は出土した土器片の数に比べるとごく少数である。
このうち,石器は緑泥片岩製の完形の石のみと凹石,敲石,打製石器の破損品等数点のみである。
このうち,石のみは明らかに弥生時代の所産であるのでVで紹介する。
凹石等の石器についても、土坑内より出土する土器片の量からして弥生時代の所産である可能性もあり,必ずしも縄文時代の所産であるとは断言はできない。
ちなみにこの凹石は,7cm ×5cm 程度のちょうど掌に握れるほどの大きさである。
風化の進んだ自然石を利用しており,両面中央に窪みが見られる。
くるみ等の堅果類の外側の果皮を割るのに使用したものであろう。
敲石は緑泥片岩製の3cm ×5cm ×12cmの大きさの四角柱状を呈し,打製石斧は緑泥片岩製の先端部のみの破損品である。
この他にも頁岩製やめのう製の二次加工が認められる石片各1個,チャ−トの残核,めのうの剥片数点が出土している。

7−2 石鏃
幡台地上の各所から採取した石鏃は57点である。
内訳は無茎石鏃が38点と多く,その内訳は平基が12点、凹基が26点、有茎石鏃が19点であった。
この他に未成品もかなりある。図7−1に無茎石鏃を、図7−2に有茎石鏃を示す。
これらの石鏃の採取した地区、石材別の分類は表7−1及び表7−2のとおりである。

   表7−1 石鏃の採取地区別の集計結果

地区

無茎石鏃

有茎石鏃

C〜F以外

10

12

    表7−2 石鏃の石材別の集計結果

石材

無茎石鏃

有茎石鏃

青チャート

22

めのう

10

黒曜石

安山岩

赤石英

頁岩

石英

赤チャート











表7−1を見ると採取される石鏃の種類と採取場所には一定の傾向が見られる。
C地区とE地区においては無茎石鏃が有茎石鏃を圧倒するが、F地区では無茎石鏃よりも有茎石鏃が優勢である。
茨城県地方では,有茎石鏃が使われ始める時期は,後期前半頃と言われている。
この説を正とすれば,採取した有茎石鏃は縄文後期以降の所産ということになる。
 一方,無茎石鏃は縄文,弥生時代を通じて使用される。
石鏃はその使用目的から必ずしも製作地,保管場所(住居)が採取地ということはなく,住居や集落からはるかに離れた場所でも採取されることもある。長幡部神社付近で採取された石鏃は狩猟によるものであろう。
しかし,多くの発掘調査結果では,石鏃が出土する場所が住居跡であることが多いため,採取地が住居跡・集落跡あるいはその近傍である確率が高いと思われる。
図7−1  無茎石鏃

 有茎石鏃の採取地で考えると,縄文後期の集落跡はF地区を中心にD地区にかけて広がっていたことが推定できる。
このことは第6節で紹介したようにF地区から後期の土器が出土している事実と良く一致する。


図7−2 有茎石鏃

 本土坑のあるC地区も、D地区とF地区ほど有茎石鏃の個数比率は高くはないが,有茎石鏃は確認され,縄文後期の遺跡範囲であることが推測される。
この推測は本土坑出土の土器やC地区採取の土器の中に縄文後期のものが含まれていることからも裏付けられる。

 E地区からも有茎石鏃が採取されていることから,縄文後期の遺跡範囲はこの地区まで広がっているものと思われる。

 一方,無茎石鏃の比率,個数は本土坑付近であるC地区が高く,かつ,採取数も多い。
また,C地区で採取される無茎石鏃には,小型で精巧なものが多い。
本土坑やC地区から縄文前期の繊維土器片が比較的多く採取されることから,これらは縄文前期の所産である可能性が高い。

石材で見ると無茎石鏃の石材はバラエティに富んでいる。
青チャートがほぼ2/3と多数を占めるが、他にめのう、安山岩、頁岩、石英等が見られる。
これらは在地性の石材であるが、図7−1の24は唯一の黒曜石製であり,剥離も入念である。
石材の透明度も高く, 信州産の黒曜石を素材としているようである。
黒曜石製の石鏃はめのう,チャ-ト等石鏃の素材となる原石の産地に近い茨城県北部では比較的珍しく, おそらくブランド品,ステ-タスシンボル として所持され, 実用品ではないものと思われる。
27の赤石英(ジャスパー)製のものも、同種の石材の石器、剥片等は見当たらないことから搬入品と思われる。

有茎石鏃の石材は青チャ-ト,めのう及び頁岩の3種類のみである。無茎石鏃とは逆に青チャートよりめのうが優越する。    
               

7−3 石斧
石鏃と並んで縄文時代の遺跡から多く発見される石器が石斧である。
図7−3に採取した石斧を示す。
(1)は大型の磨製石斧の刃部である。石材はよく分からないが非常に良く研磨されている。
(2)は大型の磨製石斧の基部である。(3)は磨製石斧の端部のみの破損品である。
小型で薄いものであり,木の仕上加工用と推定される。

(1)F地区採取の磨製石斧刃部 (2)E地区採取の磨製石斧基部 (3)E地区採取の磨製石斧基部 
図7−3 石斧

(1)はF地区、(2)、(3)はE地区で採取したものであり、いずれも定角式磨製石斧に分類される。
定角式磨製石斧が盛行するのは後期前半からと言われているので,これらは後期の所産と思われる。
E地区からは後期の良好な土器は採取していないが、後期と推定される土器片の散布を見ることができる。
また、隣接するF地区からは良好な後期の土器が採取されるので後期の遺跡範囲はE地区まで広がっているものと考えられる。
しかし、石鏃と並んで縄文時代の最もポピュラ−な石器である石斧は,図7−3に示すものの他、ほんの数点しか採取されない。
より発見しにくい石鏃等の小型石器の採取数に比べるとこの事実は明らかに有意であろう。
特に打製石器は少ない。なぜ,打製石斧が少ないのかについての疑問に対して,明確な仮説は立てにくいが,薄く板状に割れやすい緑泥片岩が大量に散布しており,これらが打製石斧として用いられていたことが考えられる。
なお,台地下の里川の河原には板状の緑泥片岩が多く見られ,それらの中には加工せず、そのままの状態で棒に付ければ、堀具として使用可能なものも多い。         

7−4 石錘

 F地区において図7−4に示す5点の石錘が採取された。         

石錘はF地区のみで採取され他の地区では全く採取されていない。
河川での漁業が発達するのは中期以降と言われている。
F地区では中期よりも後期の土器が優勢であるため、これらの石錘は後期頃の所産と推定される。石錘は漁労に使用したものと考えられており、眼下を流れる里川での漁労に使用したことは確実であろう。
おそらく対象は鮭ではなかったかと思われる。前期の遺跡範囲が森東貝塚よりの台地東側であるが、後期には台地西側に遺跡範囲がシフトしてくるが、その要因の一つに里川の漁業資源の利用があるのではないかと思われる。
図7−4 石錘

7−5 石棒、石剣
 石棒、石剣がF地区で2点採取した。
この2点は石棒あるいは石剣の破損品である。
断面は楕円形であり,柔らかい石材を敲打法により製作されている。表面は研磨されてている。
横倉要次氏が報告した後期後半の安行1式と考えられる注口土器が出土した場所もこの地区である。
石器を採取場所はこの注口土器が出土した畑の隣に位置する筆者の親戚宅の畑である。
他地区では採取されず,この地区のみで採取される石錘等の石器もある。
必然的に採取した石器はこの注口土器や石錘と近い時期あるいは同じ後期のものと推定される。
実用性は感じられなく祭祀等に用いられたものと推定される。

7−6 石槍、石錐、スクレイパー、くさび型石器等
石槍、石錐、スクレイパー、くさび型石器等の小型の剥片石器はかなりの量が採取される。これらを図7−6から図7−9 に示す。

図7−6 石槍及びスクレイパー 図7−7スクレイパー、くさび型石器等

図7−6は全てC地区で採取した石器である。1は全長33mm, 幅12mm, 厚さ8mm の安山岩製であり,表裏両面の全周にわたり剥離が施されている。
この石器を石鏃に分類すべきか, 小型の石槍に分類すべきか, それともスクレイパ-に分類すべきか判断に迷うが、基部にも入念な剥離が施されているためスクレイパーではないかと思われる。2は青チャート製の石槍か石鏃の破損品であるが,完形品とすれば全長40mm程度と推定される。
しかし,全長40mmもある無茎平基石鏃は, 弥生時代後期に大型化する石鏃にも例はなく小型の石槍と考えた方が良いのかも知れない。
3も石槍の可能性のあるものである。4は黒色頁岩製の石槍の基部のみの破損品である。
図7−8 石錐、スクレイパー、くさび型石器等 図7−9石錐、スクレイパー、くさび型石器 

 幡台地上で採取した石器のうち,石槍と断定できる石器はこの1点のみである。
完形とすれば10cm程度の木葉型の見事な石槍である。
前期以前の時期の所産と推定される。5は明らかにスクレイパ-に分類できる石器である。
交互剥離により刃が付けられている。石材は黒い流紋岩であるが,この材質の石器は台地上でこの1点のみが採取されただけである。 

 図7−7の1はE地区で採取した安山岩製の石斧と推定される石器の先端部である。
表面の風化が進んでおり旧石器の可能性もある。
2はE地区で採取したものであり、くさび形石器と考えられる。3は土坑の北側から出土した石片である。
写真左側が研磨されている。石槍の破損品か。
4はC地区採取の赤チャート製のくさび形石器。
5はD地区採取の石片である。石槍の先端部か。6はC地区採取の赤チャート製の石器である。
交互剥離による刃が付けられている。削器か。
7はC地区採取の青チャート製の石器である。小型のくさび形石器と思われる。

 図7−8の1はC地区で採取した40mm×30mm厚さ8mm のやや黄色味がかった乳白色のめのう製の切削器( ナイフ のように刃を被加工物に対して動かし切る道具をいう。ナイフ の名は旧石器時代のナイフ 形石器と混同するので避けた。刃を被加工物に対して垂直に動かすスクレイパ-の可能性もある。) である。
2はC地区採取の黄色のチャート製のくさび形石器。3はC地区採取の赤チャート製くさび形石器。
4、5は石錐であり石材は共に白めのう、4はE地区採取、5はC地区採取であり、5のは10mm足らずの小型であり、機能部は使用によりトロトロの状態となっている。6,7は共にD地区採取のものであり、石材は黒めのう及び白めのう。スクレイパ-や切削器と考えられる。

 図7−9の1はE地区採取の赤めのう製の石錐。2から7まではC地区採取であり、2は赤めのう製のくさび形石器、3は黒色頁岩製のスクレイパーである。
剥離により刃が付けられている。4、7は白めのう製であるが器種は分からないが加工の痕が見られる。
5,6はスクレイパーかくさび形石器と推定される。8,9はE地区採取であるが剥離が見られる。
他にも石斧の破損品、スクレイパーかくさび形石器、加工痕の見られる石片、を残核、石鏃の未成品が台地南端の広い範囲で、同石種の多くの剥片や砕片とともに採取される。

7−7 凹石 7−8 その他の石器

E地区において図7−10に示す凹石が採取された。
表裏両面のほぼ中央部に凹みがある。
くるみ等の堅果類の外の殻を割るのに使用したものであろう。
同種の石器は土坑内からも出土している。

図7−11に示す穿孔の見られる石がC地区から採取された。
石材は凝灰岩であり、穿孔は非常に容易である。右側にも穿孔を仕かけた窪みが見られる。
破損品であるため全体像は残念ながら掴めないが、実用品でないことは間違いないと考える。祭祀用か装飾用のものと思われる。
    
図7−10 凹石 図7−11 穿孔の見られる石

 幡台地南部で採取される石器類は、付近一帯が複合遺跡であることからその時代範囲も広いものと思われ、本節で紹介した石器類の中にも一部、旧石器時代のもの及び弥生時代のものも含まれていると考えられる。
特に大型の石鏃は弥生時代の所産の可能性もある。

石器が採取される場所は、台地上の平坦部であるCからF地区が多く、緩斜面である長幡部神社方面からは稀に石鏃が採取される程度で非常に少ない。この傾向は縄文土器の散布している範囲とほぼ一致しており、ほとんどの石器は縄文土器と共伴関係にあると言ってよい。

一般に関東地方の縄文時代の特に小型剥片石器類については、青チャートや黒曜石等黒系の石材や頁岩等白系の石材の使用が多く、いろどりは単調であるが、当地の小型剥片石器の色調は比較的華やかである。
これはやはり「めのう」の石材としての使用率が高いことがその一因であろう。
石材の種類も比較的多い。

 石器の種類で特筆すべきものは少ないが、縄文後期のものと推定される石棒(石剣?)と石錘の存在は当時の遺跡立地を考える上で重要である。
前者は祭祀的な用途が推測され、後者は里川での河川漁労用と推定され、祭祀的要素を持ち、河川漁を生計の一部とした遺跡の姿が想定される。

8.採取される剥片等の石材と剥片石器の石材について

 幡台地南部の畑地では第7節で紹介した石器類が採取されたが,重量でその10倍以上の量で石器等の製作残材である剥片,砕石類(以下「石片」とい。)を採取することができる。
石器が多く採取される場所ほど石片も多い。
特に,石器が多く採取されたC,D,E,F地区で採取される石材が多い。
採取量は約4kgほどに達した。
剥片石器の製作に使用される石材種類別内訳は第8−1表に示すとおりである。

      表8−1 石片の石材別重量内訳

安山岩

青チャート

赤チャート

めのう

頁岩

石英

黒曜石

流紋岩

11.5

19.8

2.7

60.6

2.4

2.4

0.3

0.3

 注)単位は重量パーセント(四捨五入の関係上、合計は100にならない。)
   めのうには蛋白石、玉髄を含む。頁岩には珪質頁岩を含む。
石斧, 凹石, 石剣等の大型石器素材である砂岩, 緑泥片岩等は除外。

 なお,地区ごとに特定の種類の石片が多く採取されるという傾向はなく,表8−1に示す種類の石片は,上記4地区どこでも採取できた。

 幡台地は 第3紀鮮新世に比較的浅い海底に砂,泥,火山灰が堆積して形成された久米層が隆起し,さらにその上に砂,泥,火山灰が堆積した地層である。隣接する常陸太田市旧市街地を載せる鯨ガ丘や高貫台地とは,もともと同じ丘陵であったが,里川,前田川の浸食により,今では独立した台地となっている。このような構造を有するため,台地上や斜面部にも表8−1に示す石材の露頭はなく,台地上でこれらの石材を調達することはできない。
したがって,これらの石片及び採取した石器の石材は台地外から搬入されたものである。
幡台地の北の八溝山地,多賀山地は,関東一円にチャ−ト,めのう,安山岩等の石器石材を供給した大産地であることから,採取した石片のうち,チャ−ト,めのう,安山岩は地元産のものであることは間違いない。
今でも青チャ−トや安山岩は久慈川の河原で採取することができ,めのうは山方町に大産地がある。
赤チャ−トは北茨城市付近に産地があり,その方面から搬入されたものであろう。

 頁岩は常陸太田市内でも採取可能とのことであるが,採取された頁岩が地元産であるか遠隔地からの搬入品であるかは不明である。
頁岩でも灰色,白色等異なる種類のものが多く,明らかに東北方面の産である硬質頁岩も見られる。
珪質頁岩も若干混じる。こちらも青っぽい色のもの,茶色のもの等いくつかの種類が見られる。

 明らかに遠隔地からの搬入品である石材に黒曜石がある。
黒曜石の石片のほとんどは漆黒であり流紋岩のつぶが混じる高原山産であるが,一部,信州産と推定される透明度が高いものが認められる。
唯一採取された黒曜石の石鏃はほぼ信州産と考えてよい。
流紋岩は東北方面からの搬入品と考えられる。

 これらの石片の種類別の内訳と製品である石器の石材組成はかなり異なる。
第7節に示した石器のうち,剥片石器の石材別の内訳を表8−2に示す。

        表8−2 剥片石器の石材別内訳

安山岩

青チャート

赤チャート

めのう

頁岩

石英

黒曜石

流紋岩

43

29

 注)単位は個数パーセント(四捨五入の関係上、合計は100にならない。)
   めのうには蛋白石、玉髄を含む。頁岩には珪質頁岩を含む。

 表8−1と表8−2では重量パーセントと個数パーセントの違いはあるが、剥片石器類の重量にはそれほど大きなばらつきはないため,数字は比較に耐えられるものと考えられる。

 この2 つの表によると,青チャ−ト, 赤チャ−ト, 頁岩が石器数として多いが,石片の量としては少なく,両者の間に大きな差異がある。
青チャ−トは石片としては20%程度の量であるが,石器ではその倍以上の43%を占める。
これに対してめのう系の石片は61%と石片全体の2/3 近い量を占めるが, 石器としては総量の1/3 の29%に過ぎない。
さらに安山岩に至っては石片が12%程度認められるが, 石器に至っては3%に過ぎない。

 石材によって石器加工の効率,製品の歩留りが異なることも考えられるが, チャ−ト,めのうの間の加工のし易さにそれほどの差はないと言われている。

 この違いを説明するには2つの仮説が考えられる。
その一つは,石材としての価値( ここでいう価値は, 信州産の黒曜石のような希少性、加工性、切れ味等の機能性や美的に優れていることを意味する。) が高いめのう系の石材が南の消費地向けの主力輸出品であり,製品や中間製品は加工後,運び出されたためこの台地上には余り存在せず,現地消費用としては価値が劣り、市場流通量も多い青チャ−トを主に使用した可能性が考えられる。
しかし,この仮説はめのうと同じ傾向が見られる安山岩については当てはまりそうもない。
安山岩にめのうや黒曜石が持つ価値を見出すことは困難である。
安山岩はより大型の石器類製作の材料に用いられたことが想定される。(ただし、安山岩製の大型石器はほとんど採取されていない。)

 上記の仮説は,石材が縄文時代に交換用の石器の製作用に搬入されたという仮定に基づくが,もう一つの仮説としては,めのうの多くは縄文時代ではなく,弥生時代以降に勾玉等の製作用に搬入され,この台地上で勾玉等の装飾品への加工が行われ,製品が需要地に運ばれていったとことが考えられる。
この裏付けとして弥生時代のものと考えられる玉砥石が1点採取されている事実がある。
また,図7−2中列左は勾玉の未成品の可能性がある。(この2点は10m程度離れた場所から採取した。)
近隣の金砂郷町には玉造という地名があり,盛んに玉が製作され,遺跡存在地にはやはりめのうの破片が多く見られる場所があるため,無理な仮説ではないかもしれない。
ただし,この仮説も資料が少なく推定の域を出ない。

 いずれにせよ,石器の10倍以上の量で散布する石片により,この台地で, 縄文時代あるいは弥生時代, 古墳時代に石器製作あるいは装飾品加工が盛んに行われていたことは事実であろう。
これらの製品が現地消費分のみであることは考えられない。
遠隔地原産の石材の存在は,交易の証拠品である。
この台地を中継地あるいは加工場所として, 原石, 一次加工を行った中間製品, 製品が南の消費地あるいは需要地に運ばれていったものであろう。
その逆にこの台地に南の石材消費地からもたらされ, 北の山地に運ばれていったものもあったはずである。
おそらく, 縄文時代であれば塩, 干し貝, 干物等ではなかったかと思われる。
弥生時代以降であれば,これに金属製品, 米等が加わるのかも知れない。

9. 石器の分布等から推定した幡台地南部の縄文時代の各時期の遺跡立地の変化について

 幡台地南部の縄文時代各時期の遺跡立地については, 横倉要次氏が管理人がかつてまとめた報告(このレポートの草案)のうち, 特に土坑から出土した土器を検討資料に含めて考察を行っている。
ただし,管理人は報告のうち,石器については採取場所を明確としていなかったため,氏の考察には石器は含めていない。

本節においては,時代がある程度特定できる石器とその採取場所との関係及び本土坑出土の土器等から,幡台地南部の縄文時代の各時期における遺跡立地の変化について再検討を試みる。

早期の土器が確認できるのは、現在のところ築崎貝塚、森東貝塚及び本土坑を含むC地区のみである。
確認できる土器量は多くはない。
遺跡範囲がD,E地区まで広がっている可能性はあるものの、同時期の土器が確認できた範囲は本土坑を北西端とする台地南東部である。

前期の土器は築崎貝塚、森東貝塚及び本土坑を含むC地区のみならず、より西側のF地区で確認できる。
このことから遺跡範囲は早期に比べ西方に広がっていると思われる。

中期の土器は本土坑で少数が確認される他、E地区で少数が確認されるのみである。
関東地方では、中期の遺跡には比較的大規模なものが多いが、幡台地ではそれほどの規模の遺跡は形成されていなかったと思われる。
築崎貝塚、森東貝塚では中期の土器は全く確認されていない。
ただし、E地区には未知の遺跡が眠っている可能性が大きく、中期の遺跡範囲については明言できない。

時期がほぼ特定できる石器の一つに定角式磨石斧がある。
茨城県下では,この型式の石斧は有茎石鏃と同様,縄文後期以降の遺跡から発見されることが多い。
定角式磨石斧は3点が採取されているが,その採取地点はE地区及びF地区であり4点が採取されている。
E地区及びF地区は有茎石鏃の採取数も多い。
このことから縄文後期の遺跡の存在を予測したが,定角式磨石斧の存在はこの予測を補間するものと言える。

 E地区での定角式磨石斧の存在は,縄文後期の遺跡がこの地区まで広がっていることを裏付けるものである。

F地区からは縄文後期後半の安行1式の注口土器が出土している。
横倉要次氏はこれは祭祀に伴うものであると考察しているが,この考察を裏付ける資料が同地区で採取された2点の石剣である。
石剣は主として縄文後期に流行する石器である。このうち1点は注口土器が出土した畑の隣の畑で採取している。
また,この畑では若干であるが縄文後期の土器片も確認できる。
石剣は柔らかい石材を用いており,実用性はない。祭祀用と考えるのが妥当である。
このことからもF地区において縄文後期の祭祀遺跡の立地は十分想定可能である。

 さらにF地区のみで採取された種類の石器に,5点の石錘がある。
石錘は紡錘の用に使用された可能性も否定できないが,眼下を流れる里川の存在を考えれば,川漁に用いたと考える方が自然である。
漁の対象としたのは鮭であろうか?または特産の鮎であろうか?

石器からのアプロ−チから描かれる縄文後期の遺跡範囲は,横倉要次氏の推定した範囲とかなりの範囲で一致する。
したがって,氏の推定はほぼ妥当なものと考える。
ただし,管理人は後期の遺跡範囲はさら北側,北東側まで広がっていると推定している。
北東側のE地区まで広がっているという証拠品は定角式磨石斧と有茎石鏃の存在であるが,定住に最も必要な要素である水を考えると,E地区東側斜面の湧水の存在が重要であると考える。
なお、中期同様、後期の土器は築崎貝塚、森東貝塚では全く確認されていない。

本土坑出土の土器と各地区採取の石器から,幡台地南部の縄文時代の遺跡の立地の変化を捉えてみた。
これから,遺跡の立地は早期の遺跡が本土坑から南東側を中心であるが,後期に至っては本土坑の西側,北西側にシフトしてくる姿が見えてくる。

前期と後期の間である中期の遺跡も中期の土器片の出土から存在は確実であるが,範囲等は出土,採取できる土器片の量が少なく,明確には捉えきれない。
C地区では本土坑以外では確認できず,早期〜前期の遺跡範囲とは重ならないようである。
中期の土器と推定されるものはE地区に若干,散布が確認できる。
推測ではあるが,水量が豊富な湧水のある付近のE地区にその中心があるように思える。

 幡台地南端部の縄文時代の遺跡範囲の変化の推定を地図上に表現したものが図9−1である。

早期,前期から中期,後期にかけて,遺跡の立地範囲が台地の東側から西側にシフトしていくが,これに海進と海退が関わっているものと思われる。
すなわち,海進が最も進んだ早期,前期頃には,築崎貝塚の南側の今は水田地帯となっている一帯が,ラグ-ンであり,食料資源として重要なしじみ貝類が豊富で,鳥類の飛来も多かったと思われる。
これを得るには台地東側が地理的に有利であり,このため,本土坑付近から築崎貝塚付近にかけて遺跡が立地したものと推定する。

前期末になると海退によりラグ-ンは陸地となり,貝等の食料資源は得られなくなり,台地東側は立地上の優位性を失なったものと推測する。

中期,後期になると交易が盛んとなるが,交易経路は旧石器時代と同様,河川に沿っていたと言われている。
したがって,この幡台地付近の縄文時代の交易路は里川に沿って存在し,里美方面,那珂台地方面とつながっていたと考えるのが自然である。
交易が盛んに行われていたことは,めのうやチャ−ト等の石材・石器の存在を以て示される。
これらは里川に沿って搬出入されたものであろう。
また,幡台地は多賀山地の南端,里川が平野部に出る出口に当たる場所であるため,物資の集積,中継,加工の場所としては地理的に好位置である。
これらの理由により,中期以降は里川に面する台地西側が遺跡立地上の有利性を獲得したものと思われる。
また,里川の水産資源の獲得にも台地西側が有利であるという面も見逃せないであろう。

早期  前期 中期 後期

図9−1 幡台地南端部における縄文時代各時期の推定遺跡範囲(色の濃さは遺物の濃密を表す。)

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