弘前城

弘前市の中心部、弘前公園が城址である。
桜を背景にした天守の写真が特に有名であるが、見所はそればかりでなく、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭と堀、土塁、石垣が欠損なく残り、天守の他、三棟の櫓、五つの城門が現存している。

当然、全て重要文化財に指定されている。
これほどの建物が現存している城は姫路城と弘前城くらいではないだろうか。

城域は東西約600m、南北約1000mあり、面積は約50haもある。平山城であり、縄張りとしては梯郭式に近い輪郭式である。

面白いのは三棟の櫓、五つの城門がいずれもほとんど同じ構造であり、違いがほとんどないことである。
同じ設計図で量産したという感じであり、個性はない。

門付近の枡形も同一規格である。
なお、築城当時は屋根は板葺であったが、耐寒を考慮した瓦に替えられたという。
中世城郭ではなく、完全な近世城郭として築城された城である。

はじめ鷹岡城というが築城は、津軽為信である。
それまで為信は堀越城を居城にしていたが、小さく防御の弱い城であるため、慶長8年(1603)に幕府の許可を得て、慶長9年から築城工事を開始した。
しかし、肝心の為信は慶長12年(1607)亡くなり、完成させたのは家督を継いだ三男、二代藩主信枚であり、慶長16年(1611)のことである。
その後、明治4年(1871)の廃藩置県まに至るまでの260年間、津軽氏が代々の居城とした。
現在残る櫓と門は完成時のままのものであり築城から約400年を経ていることになる。
ただし、天守だけは江戸時代後期の建物である。
西郭の土塁上。 西郭から蓮池越しに本丸を見る。 西堀。かつての川跡を利用したもの。 北門。
三の丸北の賀田口の枡形 三の丸東の土塁。 おなじみのアングルからの天守閣。 館神跡から見た天守閣と堀。
未申櫓。この城の櫓は全て画一的で
ある。デザインも今一つ?
南内門前の堀と土塁の折れ。 東門。櫓同様、門も画一的であり、
どの門か分からなくなる。
東内門。東門とほとんど同じ感じ。
本来は五層の天守が本丸の西南隅にあったそうであるが、寛永4年(1627)の天守の屋根の鯱に落雷して火がつき、三層目の弾薬庫の煙硝に着火して大爆発を起し、崩壊してしまったという。

その後、長い間、天守はなかったが、9代城主、寧親の代文化7年(1810)、本丸東南隅櫓に代えて、三層の天守が築かれたという。
津軽氏は額面10万石(実質はその倍以上?)であるが、石高以上の巨城である。
これほどまでの城を築いたのはやはり潜在的な南部氏に対する恐怖からであろう。

この城で面白いのは、二の丸の一角にある館神(たてがみ)跡である。
ここの御神体は太閤秀吉の木像である。
津軽家では徳川幕府の目を避けてずっとこの像を崇拝し続けた。
謀略で津軽を制覇した為信の命によるものであるが、この男の意外な面が伺える。
南部からの独立を承認してくれた秀吉に始終変らぬ感謝の念を持っていたのであろう。

その意思を継いでいった津軽家の代々の藩主も結構、反骨の持ち主だったのであろうか。
明治維新では津軽藩は反幕府方に立つが、そのルーツがこの秀吉崇拝かもしれない。
多くの城の建物が明治に破却されるが、弘前城が無事だったのは反幕府側に立ったためとも言われている。


堀越城
 津軽氏が弘前城に入る前の居城である。
完全な平城であり、国道7号線が二郭部分を貫通している。

また城址のほとんどが宅地や畑になっており、本郭付近のみに遺構が見られる。

 南北朝時代、平賀郡岩楯の相伝地頭をつとめた曽我太郎貞光が建武3年に築城したという。
貞光は始め南朝方に付いたが、建武の新政における論功行賞に不満を抱いて足利方に転じ、南朝方の諸城攻略の拠点としてこの城を築いたという。
しかし、貞光は南朝方の根城南部氏の攻撃で滅亡し、南部氏の津軽支配の城となる。

戦国時代に大浦為信が津軽統一を目指し、南部氏から奪い、津軽統一の拠点となる。
文禄3年(1594)には為信の居城となり、慶長16年(1611)までの18年間、津軽の中心として城下が栄えたという。
津軽氏が拠点を弘前城に移し、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。

本郭は径60mの円形であり、郭内に熊野神社がある。
周囲に高さ2mほどの土塁と堀が残る。
内部に幼稚園(現 児童館)があったので一部の土塁は失われているが、概ね良好な状態である。
訪れた時は発掘調査が行われていた。

平成17年3月17日の東奥日報では、「本丸から、中世後期には珍しい礎石建物跡が3棟見つかった。
城郭の建造物土台に据える礎石は近世に多く登場するが、県内では堀越城より築城が古い大浦城(岩木町)や堀越城と同時期の根城(八戸市)でも幾つか確認されている。
堀越城本丸からは大量の礎石が発掘されており、築城技術の移り変わりを解く手掛かりとなりそうだ。

堀越城は津軽藩祖為信が文禄3年(1594)から17年間、津軽統一の拠点とした城。城跡は現在、国道7号が分断しており、一部は熊野宮境内になっているほか、旧児童館の施設が残っている。
弘前市は平成10年度(1998・4〜)から史跡公園の整備を目指して発掘を進め「二之丸」「三之丸」「本丸」などの位置を確認している。

本年度は本丸内部の北側約1/3に当たる1120uを調査した。 対象区域の中央にある1号建物跡は幅8間、縦6間(1間は約1・8m)の広さ。
東側の2号建物跡には直径30pの礎石16個が配列してあった。
3号建物跡は西側に並び、1号、3号の建物跡からも数多くの礎石が見つかっている。
礎石は対象区域外に続いており、今後の調査で全体像が明らかになりそうだ。
二之丸や三之丸に礎石跡はなく、地面に直接柱を立てた掘っ立て柱跡があったことから、本丸が重要な機能を備えていたことが伺える。」
という記事が出ている。

本郭を東に国道方向に行くと堀跡がある。
この堀跡は幅が10m以上ある大きなものであり、この堀の東に島状の盛り上がりがあり、さらにその外側に堀跡が見られる。
この二重堀構造は浪岡城と似ており、この地方の城の特徴であろう。
水田と宅地、畑間にも段差があり、水田は水堀の跡と思われる。

本郭虎口。 本郭西側の堀 本郭内部の土塁。
本郭東の堀跡。 本郭西側の郭の土塁。 これは堀跡だろうか?

津軽氏について
現在まで続く、南部と津軽の対立の一方の主役、津軽氏は、始めは大浦氏と言っていた。
藤原氏の出という説もあるが、これはでたらめであり、南部から分かれた家系であることを隠す屁理屈に過ぎない。

南部から分かれた説も2説あり、1つは南部から分かれ、秋田仙北地方の南部領を支配した金沢右京亮家光(または則信)先祖説。
もう1つは、津軽氏は始めから地元の土豪であり、ここに南部氏の血が入ったというものである。

華々しく津軽氏が登場して来るのは、光信の代からであるが、南部氏により光信は津軽種里に封じられている。
光信はここで勢力を拡大し、文亀二年(1502)には大浦城を築き、そこに子の盛信を配する。この頃、大浦氏を称したようである。
光信の代から南部氏からの独立を画策していたようである。

後を継いだ盛信も独立を指向し、南部氏に反抗する。
天文2年(1533)南部安信に攻められるがこれを撃退。盛信の跡は甥の政信が継ぐが、天文10年小山内満春と戦い戦死。
為則が継ぐが、身体が不自由であったため、軍事は弟の守(盛)信が代行するが、南部氏の後継争いに巻き込まれ南部桜庭の合戦で戦死してしまう。
大浦氏は守信の子、為信が継ぐ。いよいよ武勇、野心、智謀全てを備えた為信の登場である。
為信は南部氏の弱体化や混乱に乗じ、勢力を拡大、念願の独立に向けて突っ走る。

南部氏の内紛に乗じ、津軽にいる南部家臣、大光寺左衛門尉を追い出し、堀越城を拠点に石川城の南部氏の津軽郡代、石川政信を撃破する。南部信直が手を出せなかったのは、宿敵、九戸政実がいたためと言われる。
この関係を上手く利用した為信が1枚上であった訳である。
九戸政実と連絡を取っていたという説もある。
石川城の後は浪岡城を攻撃して北畠氏を滅亡させ、津軽地方の小豪族を次々と平定し、津軽を完全に掌握する。
この頃、為信は大浦氏を改め津軽氏を名乗るようになったといわれる。

当時の為信の行動は、天正14年(1586)の秀吉惣無事令に完全に違反するものであったが、ここは抜かりなく、羽柴秀次や織田信雄を介してこの支配を秀吉に認めさせてしまう。
南部信直もかなりの外交能力を持っていたが、為信は1枚上であった訳である。
結局、南部信直は津軽を回復することができなくなってしまった。

しかし、これが現在まで続く津軽と南部の対立の始点である。
秀吉死後、徳川方に与して関ヶ原にも出陣し、徳川政権下でも生き残ることに成功する。
居城は弘前城を築き堀越城から移転する。

浅瀬石城(黒石市)
 黒石ICの南に見える岡にある。
城址は民家とリンゴ畑になり、かろうじて堀跡が確認できるだけである。

浅瀬石川の低地に面して張り出す岡の末端部に築いた城である。
築城は大光寺遠江守の養子となった南部光行の子行朝が、浅瀬石に居館を置き、千徳氏を名乗り、鎌倉時代初期、仁治元年(1240)、子の行重の時に築城したという。
以後、戦国まで南部氏の津軽支配の主力として千徳氏は津軽六代官の一人として、南部津軽郡代石川高信の下にあった。

しかし、元亀2年(1571)、大浦(津軽)為信が南部氏からの独立を画策すると、千徳氏も大浦氏に同調して独立化を諮る。
この時は大浦、千徳両氏で津軽を支配する密約があったという。

これに対して天正13年(1585)、南部氏は名久井日向(東氏)を大将として津軽に派遣し浅瀬石城を攻めたるが大敗し、南部氏の勢力は駆逐されてしまう。
しかし、大浦氏はあくまで津軽独占を狙う。
大浦氏と千徳氏の対立が深まり、大浦為信が奇襲をかけ浅瀬石城を落し、城主千徳政康は自害して滅亡し、廃城となった。

岡の先端部にある稲荷神社。
背後の土塁
は物見櫓の跡だろうか。
かろうじて確認できる堀跡。

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