根城(青森県八戸市)
八戸市街地の南東、馬淵川南岸の比高15mの台地上に築かれた城。
現在きれいに公園化されており、本郭の地には中世の建物が考証に基づき忠実に再現されている。

築城したのは、建武の新政時、建武元年(1334)に陸奥国司に任命された北畠顕家の国代(国司代官)南部又次郎師行という。
根城という名は、この名は名前のとおり「ねじろ」から来ている。
奥州北部平定の根拠地ということから名付けたものという。
しかし、根城南部氏がこの地に来たのはこれより140年ほど遡り、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした恩賞として、甲斐の武田氏一族にこの地を与えたことによる。
この地に赴いた武田氏の一族が南部氏であるが、根城の南部氏は同じ一族であるが、甲斐に残った南部氏の庶家、波木井南部師行が奥州に北畠顕家に従って遅れて下向し、八戸に住み着いたものであり、北畠顕家から陸奥国代に任じられる。
師行は根城を築き、宗家である三戸南部氏の勢力を上回り一帯を支配するようになった。
この地で武田菱の紋を目にしたことに非常に面食らったがこれが事実らしい。
しかも、甲斐武田氏が滅亡後も存続していたことも驚きである。当然ながら守護は八幡さまであり甲斐源氏そのままの伝統を引き継いでいた。
八戸城が別にあるが、この根城も八戸城ともいう。
両城は時期が重ならないので根城は、古八戸城といったほうが妥当かもしれない。
八戸南部氏は一貫して南朝方として行動するが、阿倍野の戦いで壊滅的打撃を受け、勢力を減退させるが、一貫して南朝を支え続ける。結局は三戸南部氏の仲介で室町幕府と和睦する。
以後、南部氏は三戸南部氏が統括し、その下で八戸南部氏も戦国時代を生き残る。
南部氏は三戸と八戸の南部氏が両輪となって支えていった結果である。
最後は当主、南部直栄の遠野移封に伴い完全に廃城になったという。
時にすでに時代は江戸時代である寛永4年(1627)のことである。
城は馬淵川に望む台地縁に築かれており、本郭、中館、東善寺館、岡前館、沢里館の5つの曲輪が存在する。
構造は島状の大きな曲輪が団子状に並び、曲輪間を堀で区切った形であり、浪岡城や九戸城と似ている。
この形式がこの地方の特長的な形式であるようである。関東では結城城が似た感じである。
昭和53年(1978)から発掘調査、環境整備工事が行われ、平成6年(1994)史跡公園の主要整備が完成し、本丸跡には主殿等が復原されている。
完全に城郭らしい部分は、本郭付近であり、東から西に廻る堀は水堀状態であり、堀底からは8m程度の高さがある。
南北朝期に活躍した南部師行の像が城址
東に建つ八戸市立博物館前に建つ。
東善寺郭東にある堀。 東善寺郭の西側。
中館と東側の堀跡。 本郭東の豪快な薬研堀。 本郭に復元された主殿。
本郭南東の二重堀と土塁。 本郭西側の自然の谷津、西の沢。 本郭南東の堀には水がある。

西側には西の沢という自然地形を改変したと思われる堀があり、幅50m近い。本郭側には土塁が廻り、二重堀になっている。
この感じは浪岡城と全く同じである。本郭内は、北に傾斜しており必ずしも平坦ではない。
内部に発掘調査の結果を基に復元した主殿や竪穴建物の工房等、様々な建物が復元されている。
建物ばかりでなく、その内部まで忠実に再現されている。
すごいのは、当時の工法を用いて加工していることであり、柱はやりかんなで削られているほど徹底している。
ここまで徹底しているこだわりは感心の一言である。一昔なら模擬天守が建てられていたことだろう。
東北隅には大きな銀杏の木があるが、これは南部氏時代からのものという。
本郭の東に位置する中館は、南部氏一族の中館氏が住んでいた館という。
北側から東側にかけては切岸となり、東側には堀跡がある。中館の東側が岡前館であるが、ここは今では窪地である。
中央部に堀があったらしいが、公園の池がその跡地であろうか。こんな低地に建物はあったのだろうか。
東善寺館は北東部に位置する少し盛り上がった場所である。かつて東善寺という寺が建っていたという。
東善寺館の東側の三番堀は非常にきれいに残っている。
東善寺館東の堀と八戸市博物館の間に城門があるが、南北朝時代、津軽の曾我氏に攻められた時の鏃の跡が残っている。
この門は中館の国道沿いにあったものを移築したという。
岡前館は国道で分断されているが、家臣岡前氏の居館があったといわれている。
館があったとすれば若干標高が高い国道の南側であろう。
この本郭と岡前館の南側を防御するために。沢里館が置かれる。

南部氏とは
奥州北部の代表的な戦国大名であり、奥州北部の戦国史は南部氏を中心に回るといっても過言ではない。
文治五年(1189)の源頼朝の奥州藤原氏征伐の恩賞で甲斐武田氏に与えられた糠部五郡(糠部、岩手、閇伊、鹿角、津軽)に武田氏一族の加賀美次郎遠光の三男光行が移住して興したという。
南部を名乗ったのは地名を取ったものというが、それがどの地なのかは分からないという。
糠部五郡は現在の岩手県北部から青森県の下北地方までの陸奥北部一帯の広い土地であるため、光行1人で支配できる訳はなく、一族を要所に配置して分割統治をした。このため、光行は六人の子供を要所に配置し、それぞれの地名を姓にする。
長男彦太郎行朝が一戸氏、三男波木井六郎実長は後の根城(八戸)南部氏、四男七戸太郎三郎朝清は七戸久慈氏、五男四戸孫四郎宗朝は金田一、櫛引、足沢氏、六男九戸五郎行連は九戸、小軽米、江刺氏のそれぞれ祖となった。
南部氏宗家は次男彦次郎実光が継ぎ、承久元年(
1219)本拠を三戸に据えたという。
ただし、元享二年(
1322)の「安藤の乱」に際して糠部に所領を与えられたという説もある。
元弘三年(
1333)、鎌倉幕府が滅亡すると、宗家の南部茂時は北条氏とともに切腹したといわれている。
代わりに八戸の波木井南部氏が南部氏の主導権を取る。波木井氏は甲斐の南部氏庶子家の波木井南部師行が北畠顕家とともに奥州に下向した一族であり、顕家から陸奥国代に任じられる。
師行は根城を築き、その一帯を支配するようになった。すでに八戸には南部氏がいたが、師行はその相続をしたのであろう。
そして、陸奥国代八戸南部氏として宗家三戸南部氏をしのぐ勢いとなる。南北朝期の騒乱においては北畠顕家に従い、京都に攻め上がり、足利尊氏を敗走させるが、
2度目の上京戦で顕家は戦死、南部師行も戦死、多くの家臣を失い大打撃を受ける。
しかし、北朝が優勢になっても、八戸南部氏は一貫して南朝方として行動する。

一方、この時期の宗家三戸南部氏の動向は詳らかではないが、それほど活発には動いていないようである。
はじめは南朝方に属していたようであるが、政行の代に北朝方に帰順し、八戸南部政光の帰順にも骨を折った。
結局、八戸南部氏の甲斐の領地を返納することで妥結した。
この斡旋成功で三戸南部氏が南部一族を掌握し、八戸南部氏もその傘下に入ることになる。
三戸南部氏は応永
16年(1409)陸奥守となり、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱でも活躍し奥州北部最大の勢力となる。
永享九年(
1437)気仙沼の岳波太郎と唐鍬崎四郎の兄弟と遠野の阿曽沼氏との戦いで阿曽沼氏を支援した南部守行は不慮の戦死をしてしまう。
しかし、後を継いだ義政も名将であり、このころ三戸南部氏が全盛時代となり、現在の岩手県、青森県、秋田県、山形県一帯を支配下においたという。
義政のあとを継いだ政盛の代になると、各地で反乱を招き、三戸南部氏は一気に衰退し、糠部付近を支配するに過ぎなくなる。
一族の金沢右京亮が支配していた仙北地方でも安東、小野寺氏等の在地勢力の反撃により、金沢家光が戦死し、子の家信は本領の久慈に撤退し、その子の光信は津軽に移った。この子孫こそが、今日まで続く南部対津軽の対立の根源となる津軽氏である。
戦国時代後半には南部氏は北奥州最大の戦国大名となるが、対抗する大きな勢力が存在しなかったのが要因の1つであろう。
大永四年には南部安信は津軽地方の反乱を平定し、津軽も支配下の置く。
この時、浪岡の北畠氏も支配下に置かれたようである。
津軽は安信の弟、石川高信を代官に置き治めさせ、他の一族も配置する。
一方、南方方面では、和賀氏を志波郡郡山で破り、葛西領にも侵攻する。安信を継いだ晴政は、安東(秋田)と抗争し鹿角郡を奪うが、津軽の統治に失敗し反乱を招く。
このころから津軽の独立化の動きが活発化してくることになる。
一方では一族内部での内紛も頻発する。一族といってもかなり昔に分家した一族であり、独立心が旺盛であったことや、山に隔てられ攻めにくい地形であったことも影響しているのではないかと思われる。
また、宗家の力がそれほど大きくはなく、南部氏一族連合の盟主のような余り強い立場ではなかったことも要因であろう。
遂に南部晴政の跡継ぎを巡って、お家騒動となり南部氏家中は大混乱となる。
南部宗家、三戸南部氏の家督決定のため、南部氏一族、重臣らによって大評定が開かれ、結果として養子の南部信直の家督を継ぐ。
しかし、遺恨が残り、家中分裂の芽を残す結果になった。
この時の遺恨が九戸政実の乱を招くことになる。
一方、中央では、豊臣秀吉が関白となり、戦国大名の私戦を全面的に否定する「全国惣無事令」を発した。
南部氏は中央の情勢を把握・分析する能力が高かったようであり、どのように動けば良いか理解していたようである。
おそらく御用商人等を通じた情報網を持っていたものと思われる。
ともかく、南部氏も秀吉との接触に何とか成功する。
しかし、津軽ではついに大浦為信が南部氏勢力を一掃し、津軽を支配下に置く事態が発生する。
南部氏も奪還の兵を出すが為信に敗れて完全に独立させてしまう。
しかし、南方方面では天正
16年(1588)高水寺城の斯波詮元を滅ぼしている。
小田原の役で南部信直は八戸政栄が領土に睨みをきかすことで何とか参陣し、これにより領土の保全に成功する。
一方、参陣しなかった葛西、大崎、和賀氏らは改易されてしまう。彼らには中央の情勢を把握する手段と分析する能力がなかったのであろう。
小田原の役後、秀吉は奥州仕置を行うが、改易させられた領主家臣の反乱が頻発する。
「葛西、大崎一揆」がその代表的なものであるが、南部信直に敵意を抱く九戸政実も天正
19年(1591)反乱を起こし、三戸城も窮地に追い込まれ、信直は秀吉に救援を求める。
そして、奥州再仕置軍によって九戸政実を滅ぼし、和賀、阿曽沼氏らを滅ぼし、領土を保全する。

次いで津軽奪還を狙うが、津軽為信はすでに秀吉から大名として認められており、奪還はかなわなかった。
信直は文禄元年(
1592)、盛岡城築城に着手するが、完成を見ずに慶長4年(1599)で死去する。
秀吉の死後、信直の後を継いだ利直は徳川家康に接近し、山形の最上氏支援に出兵するが、留守中伊達政宗の画策で領内に反乱を起こされ、急きょ帰国し、和賀一揆、阿曽沼一揆を鎮圧する。
この結果、一族連合の盟主的立場から、家臣団の強力な統制体制確立に成功し、家臣団に対して圧倒的な立場を得るようになる。
盛岡城もようやく完成し三戸より移転する。
そして、大坂の陣にも徳川方として参陣、徳川大名南部氏として生き残ることに成功する。


三戸城(青森県三戸町)

建久2年(1191)この地に入った南部氏宗家の本拠である。
元々の城は北東にあり、本三戸城といったが、天文8年(1539)に騒乱で焼失したため、永禄年間(1558〜69)に南部晴政がやや南西の山、竜ヶ崎に築いたのが三戸城である。
以後、南部氏が九戸城を経て、盛岡城に拠点を移すまで南部氏の本城であった。
城は1200m×600m、標高130m、比高90mの細長い独立した山にあり、西を熊原川が、東を馬渕川が流れ、北東で両河川が合流し、南が湿地に囲まれていたという。
この山の西側と東側は急峻であり、とても登れない。
かなり要害堅固である。城は北東から南西に長い山の頂上部を削平し、多くの曲輪が築かれる。
城域は800m×250m程度あり、本郭から段々状に曲輪が展開している。
いずれの曲輪も広い。この山の山頂部はもともとは尾根状であり、それほどの広さはなかったと思うが、削平された今に残る姿を見るとこの削平の工事量の膨大さに驚く。
まるで山上にある平城といった感じである。この印象は栃木の茂木城と似ている。
この平坦地に政庁、南部氏の居館、倉庫、家臣団の屋敷が立ち並んでいた。
山城でこれだけの居住性を持つ城は珍しい。また、西の山麓には城下町も形成されていた。これが現在の三戸の中心街である。
大手は最近再建された綱御門であり、この付近は石垣造りであったようであり、随所に崩れた石垣の石が見られる。
本丸内部。なんと駐車場である。 本丸南の大御門跡の土塁。 欅御門跡。
石亀七左衛門邸跡の曲輪。 鳩御門跡 綱御門跡に復元された門。
綱御門南斜面に残る石垣。 谷丸は駐車場と公園の芝生である。 本丸より見下ろした西下の三戸市街。

石垣は搦手口や本郭にもあった。天正19年(1591)九戸政美の乱が平定されると、三戸が南部領の北に寄りすぎているため、一時的に九戸城に本拠を移し、さらに盛岡に移ったため、三戸城は三戸御古城と称し、支城となったが、貞享年間(1684〜88)に廃城となった。

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