浪岡城(青森市浪岡町)
浪岡川が南を流れ、北側には正平津川が流れる。この両河川の間の河岸段丘上に築かれた平城である。
城址は公園としてきれいに整備されている。
それにしても結構でかい。
東西1200m、南北600mの規模があるというが、一部は宅地化で湮滅している。
城は根城と似て、島状の大きな郭が並び、郭間は二重堀で分けられる。
堀はかなり埋没しているが、当時はかなり深かったと思われる。
今も一部、水があるが、当時は水堀であったと思われる。
郭も所々湾曲し、横矢がかかるようになっている。
郭間は20m程度あり、中央の土塁は通路も兼ねていたようである。
郭は東から新館、東館、猿楽館、北館、内館、外郭、西館、検校館と直線上に8つ存在し、ほぼ一直線上に並んでいる。
このうち内館は城主が本郭であろう。
ここは城主の居住スペースであったと思われる。
南側に虎口があるが、おそらくこの下に浪岡川の船着場があったと思われる。
この船着場から郭上までは5mほどの高さがある。
北館は家臣団の住居があった場所であり、発掘結果を基に、屋敷の区画が再現されている。
しかし、家としてはいずれも小さなものである。
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発掘では、日本製や中国製の碗や皿、すり鉢、鎧の部品や刀などの武器類、鋤や鍬などの農耕具、さらに仏像や数珠などの宗教用具など様々なものが4万点以上も出土しているという。 浪岡北畠氏は、あの村上源氏で公家武将である北畠顕家の子孫である。 建武の新政で陸奥守となった顕家は奥州から2度にわたり西上し、足利尊氏の軍と戦い、摂津阿倍野で戦死してしまう。 顕家戦死後、弟の顕信が陸奥守として鎮守府将軍となるが、南北朝期後半になると北朝方に圧倒されてしまう。 この北畠氏を支えたのが、南部氏、伊達氏、田村氏等である。 浪岡城の北畠氏は、一応、北畠顕家の子孫とされている。 資料には明確に見えないが、公家の業務としての官位申請の窓口をやっていた経緯からして、まず間違いはないと言われている。 顕家の子顕成と孫の顕元が南部氏に保護され、始め稗貫の船越に住み、のちに浪岡に移ったという。 これは南部氏が室町幕府に従うようになり、南朝方の大物、北畠氏を保護できなくなり、幕府の支配権が気薄な浪岡の地に移したものらしい。 |
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南側の低地から見た西館。 | 南側の低地から見た西館(左)と内館。 | 東館南の二重堀の中間土塁。 |
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東館南から見た猿投館(右)と二重堀。 | 東館から見た猿投館(左)と北館(右)とそ の間の堀。 |
北館北側の堀。障子堀のような所がある。 右が中土塁。 |
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北館西の虎口。枡形になっている。 | 内館からみた南の低地、かつて浪岡川が 流れていたらしい。 |
内館南の虎口。この下に船着場があった ようである。 |
北畠氏が浪岡に来た時期についても諸説あるが、1370〜90年頃と思われる。
室町幕府は奥州探題として斯波氏を置き、南部氏を始め奥州の土豪を統括したが、この地の権威、北畠氏の影響、特に朝廷とのパイプ役を統治に利用する画策をしていたという。
特に戦国武将の最大の関心事の1つである官位の授受について朝廷に対する申請窓口になっていたことは絶大な権威であった。
これは関東における古河公方の場合と似たものであろう。
このため、北畠氏は御所とまで呼ばれるようになる。
戦国末期まで生き残ることができた要因は、この権威であり、周辺の土豪からも一目置かれていたためであろう。
同族である伊勢北畠氏も同じ権限を持ち、戦国時代を生き抜いている。
南部氏と安東氏の対立はかなり深刻であり、幕府は両者の緩衝材に利用したようである。
浪岡城の築城は応仁の乱ころといい、それ以前は東山根の館にいたという。
浪岡城を根拠に勢力を拡大させ、永享四年(1432)安東氏を駆逐し、津軽地方の最大の勢力となる。
北畠具永の頃が最盛期であった。
しかし、永禄五年(1562)「川原御所の変」で事態は一変する。
川原御所とは顕家の甥にあたる守親が興した分家であるが、川原具信が浪岡御所で当主、具運を殺害。
しかし、具信も討ちとられ川原御所は滅亡する。
これを契機に家臣が離反し、勢力が減退。
分家である具運の弟、滝井顕範らは勢力回復に努める。
このころ津軽地方は南部氏の支配は強くなっていた。
この南部一族の中から大浦城の南部信州為則の子、大浦為信が登場する。
南部氏からの独立を画策する為信は、まず、南部氏の郡代高信を滅ぼし、天正2年(1574)には大光寺城を攻略する。
そしてその野望は浪岡城にも向かい、北畠顕則の留守中、天正6年(1578)為信の攻撃を受け落城してしまう。
これで浪岡城は廃城になった訳ではなく、大浦氏に制圧された後は、津軽為信の弟が一時期代官として東館に館を構えていたというので支城として使っていたのであろう。
本当の廃城は江戸時代になってからではないかと思う。
しかし、当主、北畠顕則は南部氏に亡命し、岡氏を名乗って存続し、弟慶好は、安東(秋田)氏に仕え、浪岡氏を名乗り家老まで勤める。
さらにもう一人の弟顕佐は浪岡北畠氏宗家当主となり、江戸時代には山崎氏を名乗るが、明治維新後北畠氏に復し現在に続いている。
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