脇本城(男鹿市脇本)
別名、生鼻城、大平城 ともいう。檜山城、湊城と並ぶ、秋田の戦国大名安東氏の3大拠点の1つ。
築城は元亀・天正年間(1570−1573−1592)、染川城主安東鹿季によるという。

天正初期は安東修季が城主であり、彼は湊城主、安東友季を後見した人物という。
天正5年(1577)檜山城主の安東愛季の勢力が拡大し、湊安東氏を併合する。
愛季は本拠、檜山城を長男業季に譲り、この脇本城を居城とする。 安東愛季は盛んに外部進出を行い、安東氏の勢力を拡大するが、必然的に隣接する戸沢氏、小野寺氏と領土を接し抗争が起こる。

それが、天正15年(1587)の唐松山合戦である。この陣中、発病し脇本城に運ばれるがここで死去、家督は嫡子実季が継ぐ。

しかし、実季は12歳と幼少であったため、安東氏の内紛、湊合戦が勃発、この時、脇本城主の修季が湊城主安東高季を扇動し、実季の抹殺を諮ったという。

実季は家臣に守られ脇本城から檜山城に脱出、籠城戦後、鮮やかな逆転勝利を得る。
脇本城は秋田方面から国道101号、男鹿なまはげラインを男鹿市に向かい、男鹿市街地直前の男鹿半島の付け根にある生鼻崎の山に築かれている。
上の写真は東の城下町であった脇本本郷地区の海岸から見た城址である。

脇本駅からは南東2qである。
城へは県道59号線、生鼻崎第二トンネルの東側に入口があり、かなり道は狭いが、普通車程度なら、山中腹の駐車場まで行くことが出来る。
この道が大手道(天下道)であり、駐車場脇にプレハブの資料館がある。

城は地元がきれいに管理しており、訪れた日も草刈が行われ、土塁や切岸がはっきり確認できた。
なお、今残っている城遺構が全てであった訳ではなく、本来はもっと広かったという。

承応2年(1653)と文化7年(1810)の地震で海に面した南側の部分が数百m程崩落して海中に没してしまったという。
それでも残された遺構はかなりの規模であり、広大な城である。

しかし、この城、まとまりのない城である。
あちこちに遺構が散らばる。

後世、畑にされていたものと思うが、切岸も曖昧であり、曲輪内も必ずしも平坦ではない。

遺構は標高90m〜110mの山全体に広がり、城主の居館跡という内館、最高箇所標高109mの本郭部、西側の屋敷跡の3つの部分に分かれる。
各地区は堀で区画される。

内館Cは120m×60mの曲輪であり、中央部に高さ4mほどの土塁がT字形に存在する。
この土塁は風避けの土塁と思われ、井楼櫓が建っていたのではないかと思われる。
この土塁の南下Eには井戸があり、城主の居館があったと思われる。
北側に館神堂跡Dという土塁で囲まれた一角がある。
檜山城にも同じものがあった。
神が祀られていたようであるが、火薬庫と思えないこともない。

西側の屋敷跡Aは尾根上を南北250m、幅50mにわたり多数の曲輪で構成され、堀切もある。
東斜面にも曲輪@が存在する。
西側は土塁で覆われるが、これは風避けの土塁のように思える。
この土塁上からは西の男鹿市街と日本海が望まれる。B
総じてこの地区はだらだらした感じである。

@屋敷跡東端下の曲輪 A 屋敷跡の曲輪群。左上に日本海が見える。 B 屋敷跡西の土塁上から見た西の男鹿市街
C 西から見た内館、中央の土塁が見える。 D 内館にある館神堂跡 E 内館の土塁上から見た南の居館跡
F 内館西下の横堀 G本郭の土塁 H本郭の内館側の虎口
本郭部分Gは北端の土塁台から南に数段の曲輪を扇状に展開させている。
広さは120m×60mくらいである。
本郭直下には井戸が2箇所存在する。
内館との間の堀に面し虎口Hが残る。

実際はこの三地区から派生する尾根などにも曲輪があり、この地区だけで直径500m程度の範囲にわたって遺構が存在していたものと思われる。
(崩壊した部分も含めれば、もっと広いかもしれない。)

当時の様子を想像すれば、山上の平坦地に屋敷が立ち並ぶ、武家の団地のような感じだったのではないだろうか。

本郭の北側は確認ができていないが、堀切があったようである。

そこを北に500mほど行くと「馬乗り場」という場所に着く。
ここは古城というが、ただの広いスペースがあり、西側に風避け用も兼ねた大きな土塁Iがあり、他にも低い土塁があるだけである

この低い土塁は馬の放牧用の仕切りではないかと思う。
ここは文字どおり、馬の放牧場ではなかったかと思われる。
ところが、そうでもないようである。
発掘では多くの建物跡が検出されたという。
て、ことはここは住民の避難スペースだったか。

なお、この場所のその周辺にも曲輪があるという。
また、この山一帯には他にも出城が存在し、山全体が城域であったと思われる。
麓の脇本の集落は城下町であったと言い、水堀で囲まれていたという。
この集落、海にも面しているので港もあったのであろう。
ここと湊城との行き来や物資の輸送は海運を利用していたのであろう。
さすが、海運で1時代を築いた十三湊の安藤氏の末裔であり、その海運に対する知見と技術は戦国期も健在であったのであろう。
I馬乗り場西の土塁 J馬乗り場内部は、名の通り牧場のような感じ