横手城(横手市城山町)
秋田の横手地方を支配した戦国大名、小野寺氏の戦国末期の本拠である。
横手市街の東側の標高120m、比高60mのほぼ独立した山、朝倉山に築かれる。
このため、朝倉山城ともいう。
この地は、羽州街道と秋田街道の交わる交通の要衝であり、西下に横手川が山を巻くように流れ、北に明永沼があり、水堀の役目を果たしている。
下の写真は南側、横手川付近から見た城址である。

築城は鎌倉時代、正安2年(1300)小野寺道有によるという。
小野寺氏は小野寺輝道の代に全盛期を向かえ、天文23年(1554)この横手城を大々的に拡張整備する。

輝道の後継の義道も最上義光と激戦を繰り返す。
しかし、関ヶ原の合戦の対応に失敗し、あえなく改易されてしまう。

その後、一時、城は最上氏のものとなるが、慶長7年(1602)佐竹氏が秋田に入ると横手城は支城となり、城代に伊達盛重、続いて須田盛秀が入り、寛文12年(1672)から戸村氏が代々城代を世襲して明治維新を迎える。
元和6年(1620)一国一城令が出され、秋田藩領内でも多くの城が破却されたが、横手城を重要な拠点と考えた佐竹義宣が幕府に働きかけたため、破却を免れたという。

なお、元和8年(1622)、宇都宮藩主の本多正純が宇都宮城釣天井事件でこの地に流罪され、15年後亡くなるまでこの城に幽閉されていたというエピソードを残す。

戊辰戦争では、秋田藩は官軍に付く。
このため、慶応4年(1868)奥羽列藩同盟軍の仙台藩と庄内藩軍の攻撃によって横手城は攻め落とされて、22名の戦死者を出し焼失落城した。
しかし、その後、秋田藩が奪回する。

城は南北に長い山上を削平し、北に120m×80mの広さの二郭A、南に100m×60mの広さの本郭Cを置く。

山頂部はそれほど広いわけではなく、長さ300m程度、山自体も全長400m程度の小さな規模の城である。
本郭と二郭間の一段低い鞍部に現在駐車場となっている武者溜(三郭)@がある。
この駐車場の入り口が虎口Bをそのまま使っている。
ここは60m×50mほどの広さである。
この構成、金沢柵とそっくりである。

切岸は鋭く、土留めのため、また、敵が這い登ることが出来ないように一面に韮(にら)を植えたので、韮城とも呼ばれていたという。

現在は横手公園として整備されており、車で山頂まで行ける。
@ 武者溜から見た模擬天守 A二郭内はきれいな公園になっている。
昭和40年、二郭跡に三層の模擬天守が築かれ、二郭内部は良く整備されている。

この模擬天守、この後、各地の城で建てられる模擬天守のはしりといい、現在は郷土資料館兼展望台となっている。

一方の本郭部分は未整備の状態で、朽ち果てた秋田神社が建つ。
この神社は明治12年(1879)戊辰戦争で戦死した22人の霊を慰めるため焼け残った城の資材を再利用して造ったという。
B武者溜の虎口 C 本郭内には秋田神社が建つ。

小野寺氏
小野寺氏は藤原秀郷の流れであり、下野国都賀郡小野寺邑が出身というので、佐野氏、結城氏、長沼氏、皆川氏、佐竹氏重臣の小野崎氏など、関東北部を中心に分布する多くの武家と同族である。
例により源頼朝の奥州征伐の功によって出羽国雄勝郡の地頭職に補任され、小野寺経道が赴任したのが、この仙北小野寺氏の祖という。
経道が拠点としたのは稲庭城である。
小野寺氏は穀倉地帯の横手盆地の生産力をバックに発展。

戦国時代になると小野寺泰道が、稲庭から平鹿郡の沼館に本拠を移し、南部氏の出羽進出の野望を打ち砕く。
さらに天正5年(1577)本拠を横手城に移し、小野寺景道、義道の時代に最盛期を迎える。
この間、鮭延氏、六郷、本堂、前田氏らを従属させ、角館の戸沢氏、秋田湊の安東氏らと秋田地方を3分割した形で支配し、南は最上氏と対する。

小野寺氏の最大の脅威は最上氏であり、最上義光の代になると次第に圧迫されるようになり、最後はこの最上氏との対立が滅亡の原因となる。
まず、天正9年(1581)に鮭延氏が最上氏に切り崩されて従う。
天正10年(1582)、小野寺義道が由利地方の従属する土豪衆から人質をとり、その際、石沢氏母子供が自害したことから反乱が起き、大沢合戦となる。
この合戦で小野寺氏が敗退、義道は人質を返しているが、その勢力を大きく減退させる。

次いで、天正14年(1586)、最上氏に占領された旧領の回復を図って、有屋峠で最上氏と戦うが激戦の末、敗退。
翌年、勢力挽回を図り、安東実季攻撃に出陣するが、背後を最上義光に突かれ、雄勝郡を失う。

このような中、小田原の役が勃発し、奥州の騒乱は休止状態となる。小野寺義道は小田原に参陣し、その後、上京中に「仙北検地騒動」が発生。
検地を行う上杉景勝、大谷吉継らの部下に対して一揆が発生。
この騒動の結果、小野寺義道は所領の一部を太閤蔵入地として没収され、上浦郡の一部が最上義光に奪われてしまう。
最上義光はさらに小野寺氏領を全て奪うべく小野寺氏内部に手を回し、文禄4年(1595)湯沢城が奪われる。

小野寺氏も最上氏に反撃、泥沼状態で関が原を迎える。
関ヶ原の合戦では、小野寺義道も一応は東軍に属する。
しかし、最上義光の下で行動するよう命じられたため、会津の上杉方に付く。
関ヶ原の合戦の東軍勝利、上杉氏降伏で孤立状態となる。
ここに最上、秋田氏の軍勢が攻め寄せる。
小野寺勢は善戦するが、家康の命令で停戦となる。

しかし、最上義光の政治能力ははるかに上、世の趨勢を見極められなかった小野寺氏はあえなく領地没収され、戦国大名としては滅亡してしまう。
小野寺義道は津和野藩主坂崎出羽守に預けられ、元和2年(1616)、坂崎氏が改易され、亀井氏が津和野城主となると、亀井氏に仕え、その子孫が幕末に至る。

また、横手に残された小野寺義道の二歳の子は、戸沢安盛が引き取り、その子孫が現在に続く。
この小野寺氏の実力どの程度であろうか。
有屋峠の合戦での動員兵力が6000、これに対して最上氏が10000。
この数字、誇張があるようであり、精々その半分とすれば、石高15万石程度と思われる。
これが最盛期の小野寺氏の実力であろうか。
(家紋World参照)

吉田城(横手市平鹿町上吉田字吉田)
横手盆地の平鹿地区の水田地帯の平地にある県指定史跡指定の方形の平城。
東西100m、南北80mほどの曲輪が残り、南側が西法寺の墓地となって土塁、堀が破壊されているが、他の3方向は良く残る。
曲輪内はかつては畑だったようであるが、現在は草原になっている。

四隅に突出部の櫓台のような土塁を持つのが特徴であり、井桁城という別名もあるという。
しかし、搦手という北西端部には突出部は見られなく、破壊されている可能性がある。

南西隅は土塁が張り出しており、大手枡形を構成していたようである。残存する土塁は高さ3mほどあり、その外側を幅6〜10mの堀が巡る。

外郭もあったとのことであるが、その痕跡は確認できない。
周囲には館尻、新城、古城、西小路の字名、東小路、馬場、寺屋敷、鍛冶屋敷の地名が残る。

@東側の土塁と堀、堀は半分埋まっている。 A北東端の櫓台 B広大な曲輪内。かつては畑だったのだろう。

永禄年間、小野寺輝道により築城され、家督を義道に譲りここに隠居したという。輝道の後は末子、陳道が城主になる。
彼の名は天正14年の有屋峠合戦、同16年の峰ノ山合戦、慶長五年(1600年)の大森・吉田合戦に登場する。

関ヶ原後の最上、秋田氏等による小野寺氏攻撃では、吉田城も攻撃対象となるが、小野寺方が横手市大雄八柏付近で迎撃し撃退しているという。
しかし、慶長6年、小野寺氏が改易され、城主、小野寺陳道は南部利直を頼ったという。
慶長7年、佐竹が出羽に移ると、吉田城へは茂木監物が城主として入ったが、元和元年、茂木氏が横手城へと移ると吉田城は廃城となった。


大森城(横手市大森町高口下水戸堤)
別名、岩淵城ともいう。
横手城を拠点とした戦国大名小野寺氏系の城であり、横手城の北西12qに位置し、この方面の防衛拠点である。
現在、本郭Aには大森神社が建ち、周囲は大森公園になっている。

城のある地は横手盆地の中央部西端の雄物川左岸の標高121m、比高90mの山にある。
きれいな公園になっているが、その分、かなり改変を受けているようである。
神社参道の南斜面は幅15mほどの平場@が段々状になっている。

これは、おそらく腰曲輪の跡を利用したものと思われるが、どこまでがオリジナルの部分なのか、公園化に伴う部分なのか識別はできない。
しかし、虎口跡Cらしい場所が残っていた。

山頂が本郭Aであり、非常に広く、かつ、平坦である。
東西130m、南北75mの広さがあり、周囲を土塁で囲んでいたというが、東側に土塁の痕跡が確認できる程度である。
ここから東に広がる横手盆地が一望でき、当時は井楼櫓が建っていたのではないかと思われる。

東北地方の山城の本郭部はどこも広い場所が多いが、この広さからして、山麓に居館を置いていたのではなく、山上に居館があったのであろう。

本郭の東下には東西75m、南北90mの広さの二郭B、さらに東西100m×南北55mの規模の三郭がある。
山城とは言え、尾根式の城ではない。
丸っぽい山にある城であり、平地部に面する南の山裾には雄物川の支流、大納川が流れ、これが水堀の役目を果たしていると考えるが、山に続く北側や西側は山も緩やかであり、非常に守りにくい城である。

下の写真は大納川付近から見た城址である。
関が原の戦い後、大軍に囲まれ、この城で激戦が繰り広げられるが、よほど攻め手の戦意が低かったのか、あるいは戦術が幼稚だったのか、それとも城側の戦意が高かったのか、要因は分からないが、地形的にはよく落城しなかったものである。
築城は、文明年間(1469〜87)、横手城主、小野寺泰道の四子、小野寺長門守道高が横手城防衛のための城として築いたという。
その後、天正年間(1573〜92)初め頃に、横手城主小野寺義道の弟、小野寺孫五郎康道(大森五郎)が入る。
康道は小野寺氏の有力武将であり、「大森殿」と呼ばれ、天正14年(1586)の有屋峠合戦、天正16年(1588)の蜂ノ山合戦など、小野寺氏の主要な合戦に参陣して活躍している。

しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉が天下統一すると、小野寺氏も豊臣大名に列し、検地を受ける。

この検地は上杉景勝が担当し、大森城に入城し、山北三郡(雄勝・平鹿・仙北の三郡)の検地の拠点とした。検地終了後は康道が城主に復帰する。

小野寺氏は戦国時代から、隣接する最上氏との中が険悪であり、その対立が慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際に吹き出る。
小野寺氏は東軍に組みするが、最上氏との関係から、上杉方側に接近。

このため、関ヶ原では東軍が勝利すると、火事場泥棒のように最上氏と秋田氏らが襲い掛かる。
この大森城は1万余の軍勢に包囲されるが、小野寺康道は800人の軍勢で立てこもり、結局、落城もせずに和議が結ばれ、最上氏などの軍勢は撤退する。

しかし、結局、小野寺氏は改易され、当主であった義道と大森城城主、康道は石見国津和野の坂崎出羽守氏政預かりとなる。
小野寺氏改易後は一時、最上氏家臣の伊良子将監の居城となっているが、佐竹氏が秋田に入ると佐竹氏の持ち城となり、元和の一国一城令で廃城となった。

@神社参道沿いの平場は曲輪跡 A広く平坦な本郭 B二郭 C虎口跡か?

八柏城(横手市大雄八柏)
戦国前期、寛正年間(1460〜66)小野寺長道の命により沼館城にいた落合十郎が八柏城を築き、八柏氏を名乗り居城したという。
八柏氏は代々、小野寺氏の重臣を勤め、大和守を名乗り、小野寺氏を支える。特に八柏大和守道為は諜略に長け、諜略を以って小野寺輝道と義道の2代を支える。
しかし、それが命取りとなる。さらに上には上がいる。

その男こそ、伊達政宗、武田信玄と並ぶ諜略の名人、最上義光である。

文禄3年(1594)頃、彼は八柏大和守道為を抹殺するため、最上氏家臣、楯岡豊前守満茂に命じ、「貴殿山形ノ御味方ニ可被参条、忠節之至候」という内容の偽の手紙を義道の弟である吉田城主、小野寺陳道の下へ届けさせた。

道為が最上氏に内応した旨の偽書を誤って小野寺氏方に届けてしまったように装った。
これを信じ込んだ小野寺義道は道為を横手城に呼び寄せ、横手城下で2人の息子共々暗殺。

以後、道為を失った小野寺氏は一方的に最上氏にあしらわれ、勢力を減衰させ、最後は滅亡に至る。

その、八柏城は、横手盆地西部中央に位置する完全な平城である。
かつては「方70〜80間」(120〜140m)の広さを持つ方形の城館だったというが、ほとんど遺構は残らない。
道路が堀跡だったという。また、八幡神社境内に土塁の一部が残っているというが分からなかった。
左の写真の道路は堀跡だろう。

八反田城(雄勝郡羽後町新町)
新町川左岸の八反田公園が城址であるが、解説もなにもなく、城址の北半分は運動公園になってこの部分がどうなっていたのか分からない。
城は比高20mほどの独立岡に築かれ、東西200mほど、南北300m程度の大きさである。

雄勝郡から由利郡へと通じる本荘街道を押さえる役割を担った城であったというが、南側が高く、南側に高い土塁が存在する馬蹄形の形をしており、明らかに南方面を意識した造りである。
小野寺氏が最上氏を警戒して築城したものと考えて良いであろう。

城は南側に大きな土塁(櫓台?)を東西に配置し、その外側に横堀を巡らす。
そして中央部に虎口を開けている。(土塁間の切欠きに過ぎなく、これが虎口と言えるか?)土塁の北側(内側)には曲輪が数段配置されている。
また、最高位置の土塁から岡の東西に土塁を巡らす。
北側部分はグランドとなっており、この部分にあった遺構は破壊されているようであるが、果たしてどんな感じであったのだろうか。

 この城に関する明確な築城に関する記録はないが、近くにある高寺城の出城として、高寺城が築かれた元亀年間に小野寺氏によって築かれたものと思われる。
慶長5年(1600)、関が原後のどさくさに最上氏が小野寺領を侵略するが、その時の城主は小野寺甲斐守久松(久昌)という。
この侵略で落城し、久松は剃髪し、杉の宮吉祥院の塔寺久昌寺を開基したという。
@南西端の土塁、ここは櫓台か? A @の土塁の下に横堀が巡る。 B 居館?跡は運動場になっている。