久保田城(秋田市千秋公園)
秋田県の城としては一番知名度があり、100名城にもカウントされている。
秋田に移った佐竹氏が居城として新たに築城した近世城郭である。
別名、矢留城、葛根城とも呼ばれる

江戸時代は「秋田城」と言う名も使われたという。
しかし古代の城柵である「出羽柵、秋田柵」なども「秋田城」と呼ばれることもあり、混同されることもあった。
このため、現在では「久保田城」という呼び方が一般的である。

この城、100名城に数えられているわりには地味である。
その理由は石垣もない土の城だからであろう。写真もぱっとしたシーンがない。
しかし、現地を見てみると、それはとんでもない先入観。

極めて工夫された造りである。
戦闘専用の城ではなく、藩主の館、政庁ではあるが、町造りの点でも優れたものがある。
もちろん、戦闘になっても耐えれるように工夫されている。
縄張りの点では、弘前城、盛岡城、山形城等、東北の著名城塞よりはるかに優れる。
それが余り現れていないのは、土の城だからだろう。
もし、この城が総石垣だったら・・その凄さが分かるかもしれない。
まさに佐竹氏が関東、南東北の戦国から得たノウハウを注ぎ込んだ感じである。

現在、城跡は秋田市街地のド真ん中、千秋公園としてきれいに整備されている。
城は標高45m、比高40mの平野の中の独立した山、神明山に築城されている。
平地の中の独立した山なので、もともと城があったのかと思ったのだが、城はなかったようである。

この地は戦国時代は、安東氏に従う国人の浦城を本拠にする三浦氏の領土であり、その氏神を奉っていた山であったといい、神明山の名もこの氏神に由来するものという。
築城される前にはピークが3つあったので、三森山、三嶽山とも呼ばれていたという。
慶長7年(1602)9月佐竹義宣は、安東氏の居城であった湊城に入城するが、手狭であったため、新城の築城を決意し、翌慶長8年5月 、神明山に築城を開始(三浦氏の氏神は川尻村下浜へ移転させる)。

同時に城下町の整備も着手。慶長9年、本丸が完成し、湊城を廃城にして移転。
なお、城の名は当初は「窪田城」といい、正保4年(1647)から「久保田城」を使う。
以後、寛永期まで順次、城下町等の整備を継続する。

しかし、寛永10年(1633)9月本丸が全焼し、2年後再建される。
安永7年(1778)7月 本丸が再度全焼。
明治維新では戦禍は及ばなかったが、城は兵部省(後に陸軍省)の管轄に移り、破却は免れるが明治13年(1880)火災で焼失。

その後、佐竹氏に戻されるが、秋田市が明治23年(1890)城跡を秋田市が佐竹家から借り受け、公園として整備。
明治29(1896)秋田県の管理となり、名庭園設計家長岡安平が「千秋公園」を設計。
長岡安平の「技巧を避け、自然の風韻を写出する」といった設計思想に従い、地形や風景を生かした名庭園と評価されている。
しかし、外郭部の堀は埋め立てられ官庁街になっている。

城の形式としては平山城であり、岡の上に本丸を置き、その周囲に曲輪を配置する輪郭式という形式である。輪郭連郭併用式である。
元々の地形がどうであったのか、今では知る由もないが、地形を上手く利用した縄張りであったという。
水堀も多様する点では、典型的な江戸時代の近世城郭である。

左の写真は大手門脇の水堀である。
この辺の風景は完全なる江戸時代のお城といった感じである。

佐竹氏の故郷、常陸の城に共通点を見出すとすれば、水戸城に似た感じがする。
いや、水戸城の西側を除けば、水堀の配置などそっくりである。
(残念ながら水戸城本丸周囲の水堀は失われていて気がつかないかもしれないが。)
しかし、石垣は土留め程度にしか利用していなく、基本的には土の城であり、鋭い勾配の切岸を持つ点では完全なる関東の土の城である。
この城の切岸は滑るのでとても登れない。
佐竹氏には石垣を積む技術者がいなかったためという説もあるが、特に石垣を必要とした感じでもない。
見栄えの点では石垣の方が良いであろうが、建設コストも高く、幕府に対する配慮もあったのかもしれない。
一方、銃や大砲が発達した江戸時代初期、石垣より土塁の方が被害が少ないことも事実である。
当然、この点も考慮に入れているに違いない。

天守はなかったが、これも幕府に対する配慮というが、そういう城は多くあり、必ずしもこの城に限ったことではない。
単なる維持管理のコストを考えたものかもしれない。

現在、模擬天守が建つ場所には御兵具隅櫓Gと呼ばれる建物があり、曲輪の土塁上には計8棟の櫓を建ていた。
本丸には藩主居館の本丸御殿と政務所が置かれた。
表門D、裏門、帯曲輪門H、埋門F、切戸口の5つの門があった。
本郭周囲には二の丸と帯曲輪が回るが、その切岸が鋭い。その曲輪の配置形式は常陸太田城西本郭下部分に良くにている。

表門Dが一ノ門であり、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに平成13年(2001)に復元された。
構造は木造2階建て瓦葺きの櫓門である。
門の南下には門の警備と管理をする事務所である「御番頭局」と警戒所にあたる「御物頭御番所」Cを置き、警備員として物頭(足軽の組頭)が詰めていた。
この建物が唯一現存する建物という。
さらにここには二の丸へ通じる手前に長坂門(二ノ門)があり、この部分は枡形構造Bになっていた。
@ 二の丸から松下門に下る枡形 A 二の丸内部 B 二の丸から本丸に上がる長坂
C 表門下の唯一の現存建築、御物頭御番所 D 平成13年(2001)に復元された表門 E 広い本丸内部、藩主の居館、本丸御殿があった。
F本丸西の埋門 G本丸北西端御兵具隅櫓の地に建つ模擬天守 H 本丸北の帯曲輪門跡

二の丸Aは本丸の東側の一段低い場所であり、ここに勘定所、境目方役所、祈祷所安楽院、時鐘、金蔵、厩があった。
門は松下門@、黒門、厩門(不浄門)、土門(北御門)の4つがあった。
周囲は内堀で囲まれる。
三の丸は、二の丸の北、東、南の3方向を取り囲むように配置され、重臣屋敷、寺社があった。
その外側を外堀で囲んだ。
北側には籾倉がある北の丸が、西側の堀に挟まれ島状になった西曲輪には、兵具蔵があった。

その外側、内町地区には、丸の内から広小路や長野町・古川堀反町にかけて重臣の屋敷が、楢山や保戸野などには下級武士の屋敷があった。
城の西側、旭川を挟んで外町があり、そこが町民街であり、寺院は外町の西側に集中的に置かれた。
この町の構成は水戸城や常陸太田城とほぼ同じである。