秋田の古代柵

払田柵(大仙市払田と美郷町本堂城廻)
「ほったのき」ともいう。
大仙市(旧仙北町)払田と仙北郡美郷町本堂城廻にかけて位置する真山(しんざん)、長森の2つの独立丘陵を中心とし、その周囲を取リ囲むように東西1370m、南北780m、総面積87.8haの楕円形の外郭を築いた平安時代の城柵遺跡で、国史跡に指定されている。

外周の木柵は高さ3.6m、縦横約30cmの角材を並べ、延長3.6kmという。
その外郭線の内側、長森の岡だけを囲むように内郭が築かれている。
長森の岡の中央部には、板塀で囲われた政庁跡が確認されている。

真山の岡には高梨神社があり、中世には「堀田城」として戸沢氏が使用したという。
平安時代にどのような施設が存在したのかは分からない。
岡の南側、外郭内部には川が流れていたという。

東北地方最大級の城柵であり、岡を利用し、防御力も大きいが、文献資料にはその名が全く出てこない。
このため、「幻の柵」とも言われる。
発掘結果からは軍事施設と行政施設の役割があったという。
木簡が多く出土し、木簡研究のさきがけになったことでも知られる。
遺跡は明治時代、耕地整理時、水田から200本余の柵木が発見されたことがきっかけ。
昭和5年(1930)3月に発掘調査が行われ、柵の存在を確認、翌年、国史跡に指定。

戦後の発掘調査では、年輪年代法で801年に伐採された木材であることが分かり、平安初期、坂上田村麻呂の遠征のころ、胆沢城、志波城と同時代のものであることが判明。
さらに「嘉祥二年正月十日」と記された木簡が発見されており、これを裏付けている。
この場所、岡の上に立つとなかなか見晴らしが良い。

戦国時代、物見の城として堀田城が真山に置かれたことが納得できる。
岡の周囲は当時は湿地帯であったのではないだろうか。場所的にかなりの要害性があったのであろう。

昭和51年の国土地理院撮影の航空写真
右の岡が主要部があった長森、左が中世堀田城があった真山。
長森の中央部に政庁跡、長森の周囲に内郭線の城柵。
その外側に外郭線の城柵が構築されていた。
@南側から見た主要部の置かれた長森の岡。
中央部が政庁跡
A外郭線の復元城門 B内郭、政庁への入り口。ここに門があった。 C長森の上の政庁跡。

大鳥井柵(横手市大鳥町)
前九年の役(1051-62)後、出羽に勢力を拡大した清原氏一族の清原光頼、頼遠(大鳥居太郎)父子によって築かれたとされる。
しかし、後三年の役(1083-87)が起こると、清原家衡が籠もった金沢柵とともに源義家、清原清衡連合軍の攻撃を受け落城。
乱後、奥州の覇者となった藤原清衡が、三男正衡をここに起き、柵を再興し、以後関根柵とした。

柵は、横手市の市街地の北部、雄物川の支流の横手川と吉沢川の合流点に位置する。
標高70m、川からの比高20mの大鳥井山(大鳥山とも)と、その北の標高75mの小吉山とその東の台地、台拠館の3つの小独立丘陵上に渡っており、南北680m、東西200mという広さがあり、川に面していない3方向を土塁と堀で囲んだ構造という。

堀、土塁は二重であり、最大のものは幅10m、深さ3mほどあったというが、運動公園になったり、夏場ということもあり、ほとんど確認できなかった。発掘では建物跡や火災跡も確認されている。

また、多量のかわらけなどが出土し、土器の編年から、10世紀後半から11世紀後半のものと判定された。

東側の斜面にうね状空堀群が存在したという。大鳥井山山頂の大鳥井山神社が主郭部と思われるが平坦地になっているだけ。

北東側に延びる尾根に埋もれかけた2本の堀切や古墳のような土壇が確認される。
戦国時代などに城として使われたことはないらしいが、戦国時代はすぐ南が小野寺氏の本拠、横手城であり、北を守る支城として使われた可能性があるのではないかと思うのだが。

@大鳥井山から延びる尾根筋 A @の尾根筋にある堀切 B主郭の地と推定される大鳥井神社

秋田城(秋田市寺内字焼山)
「あきたのき」とも呼ぶ。

奈良時代から平安時代にかけての古代出羽国を統治するために現在の秋田市に置かれた城柵。
当時の大和朝廷は、東北地方の蝦夷制圧を進めており、その勢力圏は奈良時代始めにはここ秋田付近まで拡張した。

続日本紀によると、そのための軍事行政拠点である出羽柵(いではのき)を庄内地方(庄内地方のどこかは特定されていない。)から、天平5年(733)ここ秋田村高清水岡(現在の秋田市)へ移された。日本海に近く、雄物川の河口付近、高清水丘陵上にある。
あきらかに雄物川水運と日本海の海運の統制も考慮した立地である。

大日本古文書『丸部足人解』によると秋田へ移転した出羽柵は、天平宝字4年(760)頃に秋田城と改称されたらしい。
対蝦夷の最前線であり、鎮狄将軍(ちんてきしょうぐん)が駐在した。
その次官、出羽介が秋田城介(あきたじょうのすけ)であり、この役職が戦国時代まで継承され、大名秋田氏まで続く。
奈良時代末期にはここに国府も置かれる。

しかし、延暦23年(804)ころから、蝦夷の反乱が激しくなり、安全のため国府は移転され、軍事拠点並びにこの地方の行政拠点に特化されたようである。
元慶2年(878)蝦夷の大反乱、元慶の乱が勃発、秋田城が落城。
朝廷軍が大苦戦するが、鎮守将軍として派遣された小野春風が和平を結び、秋田城が回復された。

その後も天慶の乱で攻撃を受けたりしているが、前九年の役以後には衰退し、いつしか廃城になったという。
なお、奈良時代には、渤海使が出羽に来着し、秋田城が迎賓館として使われたという。

約550m四方の不整方形の瓦葺き土塀が外郭線として岡の上、谷部を覆うように巡らされ、その内部に東西94m、南北77mの官庁跡などがあった。
昭和14年(1939)に国の史跡となり、以後、発掘調査が行われている。
現在、東門と築地塀が復元されている。
この築地塀、まるで長城のように外郭線を構成していたようであるが、なかなか重厚である。
これを突破するのは大変そうだが、梯子があれば十分に乗り越えるのは可能である。

しかし、攻められた場合、城側が反撃するための狭間や櫓があったのか、塀の上は屋根になっているが、遮蔽された通路にはなっていないのが不思議である。
塀の外側には沼などが配置され、水堀を兼ねていたようである。
いずれにせよ戦国時代の城とはかなり違った感じである。
中国の城の影響が大きいのだろうか。

@復元された東門 A復元された重厚な築地塀 B内郭の官庁 C内郭内部の建物跡