金沢柵(横手市金沢中野)
金沢柵と言えば、後三年の役の主役、平安時代のことであり、当時の城であれば大した遺構はないという先入観があった。
しかし、訪れてみるとここは完全なる中世城郭であった。
堀切はおろか竪堀まで完備しているのである。
それもそのはず、比高110mのこの山、要害堅固である上に、平地を眺望できる城を置くのに適した場所にある。
清原家衡、武衡のみならず、後世、ここを支配した戦国大名も当然利用したことは納得が行く。
ただし、戦国時代なら「柵」ではなく、「金沢城」と呼ぶべきかもしれない。

まずは長禄2年(1458)、南部氏の家臣金沢右京亮が入ったというが、多分、それ以前にも城として使われていたのであろう。
その後、小野寺氏が支配すると家臣の金沢権十郎が入り、小野寺氏の本拠、横手城の北を守る城として使われたのであろう。

関が原後、小野寺氏が改易されて滅亡し、佐竹氏の領土となると佐竹一族の東将監、梶原政景が入り、その後、1国1城令で廃城となる。
城としては600年近い歴史があると思われる。

なお、梶原政景と言えば、太田三楽斎の次男、小田城の城主を務めた男である。彼の名をここで聞くとは思いもしなかった。
この城、後三年の役では武力攻撃では落城していないという実績を持つので、その要害性は保証書付きである。

周囲が急勾配であるが、頂上部は結構平坦である。
比高はあるが、山頂部まで車で上れるのがうれしい。
山頂部、二郭の地には金沢八幡宮が建つが、これは、後三年の役後、寛治7年(1093)源義家が石清水八幡宮の神霊を勧請して創建したものという。
江戸時代のこの地の領主、佐竹氏こそは義家に最も近い子孫であったのは偶然だろうか。
当然、源氏である佐竹氏も八幡神社を篤く信仰し、整備し貴重な文化財を伝える。
その城であるが、山頂部の十文字に張り出す尾根に曲輪を置く。
中心が兵糧蔵があった場所@であろう。
その南東の尾根に本郭A、北西の尾根に神社本殿のある二郭E、その先に三郭、北東の尾根に北郭D、南西の尾根に西郭Fを置く。

いずれの郭もかなり広い。発掘すると掘建小屋の柱穴址がたくさん検出されるという。
本郭は70m×50mほどあり、広い。

その南東に派生する2本の尾根には、それぞれ5重堀切B、3重堀切Cが存在し、竪堀が何本か下っている。
この部分は完全なる中世城郭の雰囲気である。
本郭と神社本殿のある二郭の間の低い鞍部が兵糧倉があった場所@、今でも炭化米が出土するという。
@本郭と二郭間の鞍部の曲輪、兵糧蔵の曲輪。 A本郭内部は平坦で広い。
B本郭の南東の尾根には5重堀切がある。 C本郭の東の尾根にも堀切と竪堀がある。 D北郭には土俵が・・。
二郭側の通路はもともとは堀切だったのではないかと思われる。その通路を北東に行くと、相撲の土俵がある北郭Dである。
ここは30〜40m四方ほどの広さ、周囲は土塁があったようである。二郭側の通路、これは堀切跡のようである。

北郭から北東に尾根が展開するが、曲輪が数段ある。
神社がある地が二郭Eであるが、この地の方が本郭っぽい。(本郭らしい曲輪が2つ存在する城としては、近くの横手城もよく似ている。)
社殿のある場所は土壇状であり、ここに井楼櫓があったように思える。
二郭の北下に細長い三郭があり、その先は堀切となる。
一方、駐車場(ここも曲輪だろう。)から南西の尾根が西郭である。
E二郭に建つ金沢八幡宮 F西郭は広大であり、真ん中に堀切が1本ある。

尾根幅は30mほどあり、真ん中に堀切が存在する。長さは200mほどあるだろう。
先端は急勾配、下のも曲輪が確認できる。
また、東下にも曲輪が確認できる。
訪れたのが夏場であり、藪が多く確認できていないが、まだまだ、多くの遺構がありそうである。
さすがは難攻不落を誇る「柵」、中世城郭「金沢城」としても1級品である。

後三年の役
平安時代中期、東北地方出羽国には清原氏、陸奥国には安倍氏が並立するが、安倍氏は陸奥国司と対立し、前九年の役で滅亡。
その滅亡の要因が清原武則の参戦である。武則の跡は武貞、真衡と続く。
その武貞の妻は、安倍一族藤原経清の前妻であり、安倍頼時の娘、藤原経清との間の息子が武貞の養子となり、清原清衡を名乗った。
さらにその後、家衡が生まれる。一方、清原氏の惣領真衡には子がなく、桓武平氏系の海道小太郎を養子に迎え成衡を名乗らせる。
その妻には1083年に常陸国から源頼義の娘を迎える。
その、成衡の婚礼で事件が起こる。出羽から訪れた清原一族吉彦秀武を真衡が無視し怒らせ、出羽に帰る。
面目を潰された真衡は激怒し、直ちに秀武を攻撃。
一方の秀武は、真衡と不仲の清衡と家衡に応援を求め、戦闘状態になる。
清衡、家衡、秀武は真衡の館に迫るが、戦闘は中断、にらみ合いとなる。
しばらくして真衡は、秀武を討とうとする。その一方、源頼義の嫡男の源義家が陸奥守となり陸奥国に入る。一方の真衡が急死。
これを見た清衡と家衡が真衡の本拠地を攻撃するが、源義家が真衡側に味方し、清衡・家衡軍は惨敗し、義家に降伏する。
真衡死後、義家は真衡の所領を清衡と家衡に分与。
ところが家衡はこの裁定に不満を抱き、応徳3年(1086)清衡の館を攻撃。
清衡の家族は皆殺しになるが、清衡自身は生き延び、これに義家が味方。
清衡と義家は家衡が篭る沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)を攻撃するが敗北。
武貞の弟、清原武衡は家衡に味方し、家衡とともに難攻不落の要害、金沢柵に移る。
寛治元年(1087)、義家・清衡軍が金沢柵を攻撃するが、難攻、秀武発案の兵糧攻めにより、家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて逃走。
しかし、武衡は捕らえられ殺され、家衡も討ち取られる。
この戦いは義家の私戦とみなし、陸奥守を解任。結果として義家は、主に関東の将兵に私財から恩賞を出すことになった。
しかし、このことが関東で源氏の名声を高め、後の頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれている。
一方、東北地方は清衡が支配することとなり、実父藤原経清の姓藤原に復し、平泉の奥州藤原氏が起こることになる。
この戦いのエピソードとして名高いのが「雁行の乱れ」である。
義家軍が金沢柵へ向かう際、西沼(横手市金沢中野)の付近を通りかかると、整然と列をなして飛ぶ雁が乱れ飛んでいた。
それを見た義家は清原軍の伏兵を察知し、これを破ったというものである。