角館城(仙北市角館町)
角館と言えば、武家屋敷である。
でもあの武家屋敷群は江戸時代、秋田に移封された佐竹氏家臣の葦名義広やその後入った佐竹北家及び彼らの家臣団が整備したものである。
佐竹の家臣が入ったので当然、角館にも城があった。
その城こそが角館城である。

でも一国一城令で廃城となり、今では余り人は行かない。
その角館城、武家屋敷群の北に見える山、標高166mの古城山に築かれていた。
この山は直径500mほどのほぼ独立した山であり、武家屋敷群からの比高は100mほど、結構高い堂々たる山である。
上の写真は南側、桧木内川沿いから見た城址である。
武家屋敷が右下の林の部分である。
この山は東に院内川、西に桧木内川があり、この2つの山が天然の堀となっている。
城跡は桜の名所と言うが、シーズン以外は、マニアを除いてはほとんどだれも行かないのではと思われる。

公園化されているのである程度は破壊されているようであるが、かなりの遺構は残存しているようである。
しかし、訪れたのが夏場だったこともあり、残念ながら草の勢い、葉の勢いも凄く、曲輪等、遺構は十分、確認できなかった。

その角館城、山頂の本郭まで車で行けるように道があるが、途中で行けなくなっている。
行けたとしても雨などで路面が削られ、四駆車でないと行けない。
その道とは別に階段付きの遊歩道、登城路が整備されている。
そこを上がって行くと、二郭に出る。
夏場では、かなりきつい道である。いきなり二郭@なのであるが、それまでの間に曲輪らしい平坦地が全くないのである。
この曲輪長さが東西30m、南北50mほどあり、北側が高さ8mほどの切岸を介して本郭Aである。
この二郭から戸沢氏時代、東の城下町に下りる道があったらしいが、藪で分からない。
本郭は東西最大50mほど、南北70mほどあり広く、平坦である。
南側に土壇か土塁があったようであり、ここからか角館の町が一望のもとに見える。
この場所には井楼櫓があったのかもしれない。
山城の本郭部と言えば大体においては狭く、武器庫、金倉、米倉、火薬庫等、重要物資が置かれた場所であり、緊急時の避難場所という性格があるが、この城の本郭は居住性も十分にある広さである。ここに居館があったのではないかと思われる。
北西側に本郭まで来るための道路が来ている。その場所は虎口Bのようになっている。
どうもそれを車道に利用しているらしい。
本郭の北側にも腰曲輪がある。また、この車道を西に下って行くと、道沿いに数段の腰曲輪が確認できる。
一方、本郭の東側は急斜面かつ藪でさっぱり分からない。
この角館城、堀切とか横堀などは見られない。山を削って、段々状の曲輪を展開させただけの古い形式の城という印象である。

@本郭の櫓台から見た二郭と角館の市街 A広い本郭内部 B本郭西の虎口?
戦国時代、秋田の3大勢力の1つ、戸沢氏の本拠であったことで知られるが、築城者は戸沢氏ではなく、この地の土豪、菅(角館)氏である。

築城時期等は明確ではない。しかし、戸沢氏の勢力が大きくなると、 応永30年、菅(角館)利邦が城主の時、門屋城主であった戸沢家盛に攻められ落城、以後、戸沢氏が常陸に去るまでの間の居城となった。
戦国時代、戸沢氏はここを拠点に安東氏、小野寺氏と抗争し、戦国時代を生き残る。

秀吉に所領を安堵された時点では44000石であったというが、鉱山や山林も有していたのでその実力は100000石くらいはあったものと思われる。
角館の武家屋敷のメインストリート あの有名な青柳家、水戸の青柳出身。

関が原後、慶長7年(1602)、戸沢政盛は常陸松岡40000石で移り、角館城には佐竹義宣の弟、葦名義広(義勝)が15000石で入り、南の山麓に居館を置いたという。
さらに、明暦2年、葦名氏が断絶してしまうと、出羽長野紫島城から佐竹北家の佐竹義義隣が10000万石で入り、葦名氏と佐竹北家により、今の武家屋敷群、城下町が整備された。
なお、戸沢氏時代の城下町は山の東側、城廻地区であったという。

戸沢氏
戸沢氏は桓武平氏貞盛の末裔と称しているが、これは後世、源氏である南部氏との抗争上、名乗ったに過ぎないものと言われる。
その実態はさっぱり分からないのであるが、古代に奥州開拓に入植した氏族の末裔ではないかと言う説がある。
姓は雫石庄戸沢邑から採っているという。
奥州藤原氏の時代は藤原氏に従属していたようであるが、頼朝が藤原氏を滅ぼすと衡盛は頼朝に従う。
(ただし、伝承ではそれ以前に頼朝に従属しており、屋島合戦の功で建久五年(1194)陸奥磐手郡滴石(岩手県岩手郡雫石町)に四千六百町の土地を与えられ、しかし、当主「衡盛」の「衡」は藤原秀衡、泰衡から採ったことは容易に想像でき、それ以前から奥州に土着していたと考えられる。)
兼盛の代にとき、門屋に移り、安貞二年(1228)に門屋城を築いたという。鎌倉時代はほとんど歴史に登場して来ない。
南北朝の騒乱では南朝に属し「雫石の兵」として登場するのが戸沢氏のことである。
しかし、南朝方が敗れ、北朝方に帰属して生き延びる。
戦国時代前期、秋田地方は小野寺氏、南部氏、安東氏の三つ巴の状況となるが、戸沢氏がどうしていたのかは明確ではない。
この時期の戸沢氏は楯岡の揚土城主の小笠原氏と同盟し、安東、小野寺、南部の勢力均衡の間をぬって、中立的立場で周囲の中小土豪に対する支配を確立していったようである。
応永31年(1425)戸沢家盛は角館に本拠を移す。
この背景には鉱山経営もあるようであり、鉱山がかなりの富をもたらしたようである。
戸沢氏の勢力が大きくなると、必然的に安東氏、小野寺氏との対立が生じ戦いとなる。
天文16年、道盛(後の盛安)は安東氏から淀川城奪還、仙北郡のほとんどを支配する。
戦国後期は南部氏の代わりに戸沢氏が加わり、小野寺氏、安東氏の3氏対立の構図となる。
戸沢氏は南の敵、小野寺氏に対しては最上氏との挟撃策で戦った。
安東氏とは、先に述べた「唐松野の合戦」があり、安東を破る。しかし、豊島道季と組んだ安東氏撃滅は失敗し、安東実季の復活を許してしまう。
そして小田原の役が勃発。戸沢盛安もただちに小田原に向かうが、25歳で小田原で病死してしまう。

 盛安の嫡子政盛は6歳であったため、盛安の弟の光盛が家督を継ぎ、豊臣政権下で生き残る。
その戸沢光盛は、文禄の役に出陣する途中、姫路で疱瘡(天然痘)のため17歳で死去。
そのあとは家臣の補佐のもと盛安の子政盛が継ぐ。関ヶ原の合戦では一応、東軍に属するがほとんど動いていない。
その後、佐竹氏と入れ替わりに常陸へ転封され、小川城に入るが、宝永七年(1704)、出羽国最上郡新庄68000石で転封となり、明治維新に至る。
(家紋World参照)


堀田城(大仙市払田)
払田柵の西の岡、標高65m 比高40mの真山が城址である。
築城時期は不明であるが、地元の土豪堀田氏の築城という。
すぐ東に本堂城があるので、堀田氏は本堂氏家臣であったようである。
本郭は高梨神社のある地Aであり、そこは直径60mほどの広さ。
周囲に帯曲輪があるようであるが、夏場は藪で確認できない。

西に突き出した尾根に西郭があり、上が60m×40mほどの広さの平坦地になっており、東側に腰曲輪@がある。
これらの周囲を2段の帯曲輪が覆う。
もう1つ東側にも突き出し部があり、こちらも曲輪である。
城としては規模も小さく、遺構もはっきりしていない。北の麓には幅10mほどの堀があるという。
いずれにせよ、物見台程度の城である。

右の写真は南東から見た城址である。
航空写真は昭和51年国土地理院撮影のもの。

@本郭に建つ高梨神社 A西郭の段々状に重なる曲輪
B城址の南の麓にある旧池田氏払田庭園。
池田氏庭園とは、大仙市高梨に所在する豪農、池田家の庭園であるが、その分家の庭園が堀田城の麓にある。
旧池田氏払田庭園と言う。分家の庭園とは言え、100m四方以上の広さがあり、周囲を土塁が囲んでいる。
外からは武家の館跡のように見える。恐るべき家である。
その池田家、先祖は、享保年間(1716-1735)、高梨村肝煎孫左衛門にさかのぼり、戦前までは奥羽三大地主の一つに数えられた豪農で、明治時代から戦前まで秋田県の政治・経済・文化に大きな影響を残した資産家という。
池田本家の庭園は3qほど南にあり、その広さは約42,000平方メートルという広いものであり、国の名勝に指定され、この分家の「旧池田氏払田庭園」も名勝に追加指定された。
近代造園の祖、千秋公園を設計した長岡安平が設計し、春には池の周囲にツツジが咲き、秋にはモミジが紅葉して美しく、多くのアマチュアカメラマンが訪れるという。

本堂城(美郷町本堂城廻)
本堂氏といえば関が原後の戦後処理で、秋田から常陸に移された小大名として茨城にも馴染みがある。
本堂氏は石岡市の志筑城を陣屋とし、大身旗本としてそこで明治まで続いた。
その本堂氏が常陸に移る前に本拠としていた城がここ本堂城である。

六郷複合扇状地の扇端近くに立地する典型的な平城であり、北西側を矢島川(雄物川水系)が南西方向に流れる。
外郭と内郭の2つからなる輪郭式の城であり、内郭にあたる本郭部分の土塁、堀の一部が残存し、かつての形状が良く分かる。
本郭の堀は東西182m、南北273mと大きく、幅は約10m以上、水田に利用されているが、一部は水堀状態で残る。
その堀の内側の本郭の大きさは東西140m×南北180m土塁の長方形であり、北東部端に高さ4mほどの土塁@、Aが残り、南西端にも土塁の残痕部Bが盛り上がりとして残る。
本来は高さ4mほどの土塁が本郭周囲を覆っていたらしいが、ほとんどは崩され、堀を埋めるのに使われたという。
虎口は北以外の3箇所にあり、南側が大手Cだったようである。
本郭内部は現在は休耕地状態であるが、畑として使われていたようである。

@本郭北東隅部 A本郭北東隅の土塁 B本郭南西の堀と櫓台の土塁 C南側の大手口

慶長19年(1614年)銘の現存する古絵図『本堂城廻絵図』(皆川氏旧蔵、現秋田県立博物館所蔵)によれば、本郭の外側に外郭があり、その周囲を堀が囲んでいたという。
広さとしては東西436m、南北405mという広大なものである。
しかし、外郭部は西側、南側が集落となり、北側、東側が耕地整理され水田となり、ほとんど分からなくなっている。
なお、東側に根小屋(城下町)があったらしい。
非常に大きな城であるが、平城でもあり、戦闘用の城ではない。
居館及び領地支配のための政庁や倉があったのではないかと思われる。

城主の本堂氏は、鎌倉時代の前半、奥州藤原氏討伐の功として陸奥国和賀郡に土着した和賀氏の流れである。
和賀氏は南北朝時代に出羽国に進出し、その末裔が本堂氏と考えられている。
この地は北に戸沢氏、南に小野寺氏、西に安東氏がおり、その微妙なパワーバランスの中で独立を保持している。
しかし、当初は要害性のある山城の元本堂城を拠点としていた。
本堂氏は義親 - 頼親 - 朝親 - 忠親と続く。
しかし、戸沢氏、小野寺氏の間に挟まれ、両者との戦いもあったようであり、『寛政重修諸家譜』によれば、義親は戸沢氏と戦い鴬野で戦死、頼親は小野寺氏との戦いで戦死、朝親もまた戦死しているなど、苦難を経験している。
当主の戦死が相次ぐ中で滅亡もせず、家が存続しているのは驚きである。
戦国時代後半になると、勢力は大きくなったようであり、山城であった元本堂城から、平地に本堂城を築いて天文年間(1532 - 1555)に移ったという。
その後、本堂氏は小田原の役に参陣し、秀吉の検地に協力している。
そして、本堂忠親は8,983石余の知行地を安堵された。
さらに、秀吉の朝鮮出兵に肥前名護屋におもむいている。(派兵の計画はあったが、出兵はしていない。)
関ヶ原の戦いでは東軍に付いたが、慶長7年(1602年)、佐竹氏の秋田移封に伴い本堂忠親の子、茂親が常陸に国替えとなり、新治郡志筑8,500石に転封された。
その後、本堂城は廃城となった。


六郷城(美郷町六郷古館)
あの鬼佐竹こと、伊達政宗、北条氏政を震撼させた猛将、佐竹義重終焉の地である。
常陸、南奥羽の佐竹氏の城を多く巡ったが、やはり、ここを見ないと佐竹の城巡りは終点ではない。
ここに来たかったのであるが、なかなかその機会がなく、2010年7月18日、ヤブレンジャーツアーでその願いがやっと実現した。実に感慨深い。
都合、佐竹義重はこの城に10年居城したのである。
城は出羽の小大名、六郷道行が永禄2年(1559)に築城し、以後、慶長7年(1602)、関ヶ原後、常陸府中に移るまでの43年間、六郷氏の居城であったが、佐竹義宣が秋田に入る前、川合伊勢、矢田野安房守らがこの城を受け取る。
しかし、六郷氏の移動や小野寺氏の改易で近辺の人心が落ち着かなかった。
このため、佐竹義重が人心の収攬を図るため、入城する。
翌慶長8年、小野寺氏の旧臣を中心にした一揆1000人ほどがこの城を攻める。これに対して、佐竹義重が領民を指揮して奮戦して撃退した。
その後、佐竹義重は、慶長17年(1612)4月19日、66歳でここで死去。城はその後は廃城になった。

その六郷城、美郷町六郷の中心部の西側、国道13号を大曲方面に行った古館地区にあった。
東に位置する六郷の中心部が根小屋であったのであろう。
完全な平城である。本郭だった場所が稲荷神社、熱田大神宮付近、その場所は微高地であり、周囲の水田が堀跡であったことを推定させる程度である。
東南側に二郭が存在していたらしいが、工場や道路になって分からない。
堀跡の表示があったが、ちっとも分からない。
案内板の絵図を見ると湿地帯の中に浮かぶ島のような微高地にあった感じでの城である。
また、昭和51年国土地理院撮影の航空写真を見ると、稲荷神社の周囲に堀跡が確認できる。


上は昭和51年国土地理院撮影の航空写真
かろうじて本郭の形状と堀跡が確認できる。

左は現地解説板にある城址古図。
@本郭跡という稲荷神社 A本郭の北側は堀跡らしい。水田は湿地帯? B内堀跡というが・・これじゃ分からん。

六郷氏
藤原南家二階堂氏の流れという。詳細については分からない点があるが、文治五年(1189)の源頼朝による奥州藤原氏征伐の恩賞で、または、もっと後の鎌倉時代末期という説もあるが、出羽の六郷付近、山本郡に領地を得た二階堂一族が地頭として赴任し、根を下ろしたものという。
二階堂一族が称した「六郷」という姓は、この地の地名なのか、単なる支配している郷の数を姓にしたのかは分からないという。
六郷氏は記録にはほとんど登場しない。前述の来歴も後世の文献によるものであり、どこまでが真実かは分からない。
記録に登場してくるのは、戦国末期、道行、政乗の代からである。
天正5年(1577)、二階堂道行が涅槃像を永泉寺に寄進したことを記した「永泉寺什物涅槃像事」が資料に出てくる最初であり、「大旦那藤原朝臣二階堂弾正忠道行」の名がある。
二階堂から六郷に改姓したのは道行の代と言い、天正10年(1582)に安東愛季が小野寺義道にあてた書状にも「六郷方御奉行」の記述があるという。それまでは二階堂を名乗っていたらしいが、実際は二階堂氏の流れなのか、確証はないらしい。
六郷城の築城は、道行の代、永禄2年(1559)ころと推定される。
その一方で、角館の戸沢氏の『戸沢家譜』にも六郷氏の名が時々出てくる。
ただし、この資料は江戸時代に編集されたものであり、出典に不明な点が多く、信頼性に疑問が残る。
南北朝時代に戸沢英盛のころに、六郷長五郎政直の名が、戸沢家盛の代に、六郷弾正政英と六郷丹波守が登場し、家盛の次の久盛の母は六郷丹後守の娘となっている。
六郷氏の勢力は最盛期で1万石程度と推定され、北隣の本堂氏と同じくらいである。
本堂氏も同じであるが、戦国末期の秋田地方は安東氏、戸沢氏、小野寺氏、等の3大勢力のパワーバランスの上で均衡を保ち、それゆえ六郷氏や本堂氏などの小大名、国人領主が滅亡もせずにいた。
しかし、当然ながら、大勢力である小野寺氏、安東氏、戸沢氏に従ったり、同盟したり、時には敵対することとなった。
特に小野寺氏とは従ったり、敵対したりすることが多かった。
六郷氏の下にはさらに六郷衆と呼ばれる小国人領主たちがおり、彼らと同盟関係にあったようである。
天正18年(1580)、小田原の役後、六郷政乗は5000石を安堵され、文禄の役には、肥前国名護屋城にも出向いている。
関ヶ原の時は東軍側に立ち、上杉方に転じた小野寺氏を最上氏とともに攻撃した。
その結果、六郷政乗は徳川幕府下で生き残ることに成功。
慶長七年(1602)常陸府中に加増されて10000石で移り、大坂の陣に参陣、元和9年(1623)、さらに10000石を加増され、出羽国由利郡本荘20400石で移り、明治維新を迎える。
結果としては極めて幸運な一族と言える。